91才の料理研究家小林まさるさんが語る戦争体験「樺太の少年時代、命がけで食糧を求め、氷点下の川で鮭を獲った」
「終戦の混乱の後、親父はロシアの人たちに炭鉱の機械修理を教えることになって、俺たち一家は本土に帰れなかった。3年間、樺太に残って暮らすことになったんだ。このときの暮らしでも食べ物には苦労した。食べ物がなかったら人間は哀れなもんだよ。
食べ物のためだったらなんでもやる、もう命がけだったよね。食料倉庫に忍び込むと番兵がいて銃を持っている。殺されるかもしれねえ、それでもやるしかない。腹をすかせた家族になんとかして食糧を調達しなければ。
ロシア兵に銃を向けられたこともある。命をなくすかもしれない危ない橋を何度も渡ったんだ」
気温は氷点下、樺太の冬は厳しい。穀物が豊かに実らない極寒の地で、「危険を冒してでも食料を探しに行かなければ飢え死にを待つばかりだ」とまさるさんは振り返る。
「樺太の領土に川があって、その川を渡れば対岸に食料倉庫があったんだ。倉庫には銃を持った番兵がいるから、身を潜めてこっそり川を渡るんだよ。長靴に水が入ったら、足がしばれて(凍って)動けなくなる。必死だったよね。
川には鮭もいるから、親父に長い竹竿を作ってもらってさ、餌をつけて川底で引っ張ると、コツンと当たる感覚がある。その瞬間、グンと引っ張るとでっかい鮭が獲れるんだ。
しばらくすると、その川で鮭の養殖が始まって、鮭を獲るのが禁止になっちゃって。それでも俺は何度も隠れて獲りに行った。
鮭の養殖をする孵化場では、ロシア人が銃を背負って監視しているんだ。彼らは見回りに出かけると1時間は帰ってこないから、その隙を狙って友達たちと一緒に川へ入ろうってことになった。夜は雪が50cmくらい積もっている場所だから、隠れながら徐々に川に近づいていった。
そしてはっと振り返ると、『こら、お前たち、そこで何してる!』って、見回りに行ったはずの奴が引き返してきて、俺たちに銃を向けていた。
俺たちはその場で動けなかった。ロシア人が近づいてきて『お前ら、罰金としてここで1日働け!』って言われて、翌日に手伝いをさせられた。
その頃にはロシア語がだいぶ分かるようになっていたから、ロシア人に聞いてみたんだ。
『あのとき、俺たちが逃げたら撃ったのか?』
『いや、撃たなかったよ。お前たちが俺に向かってきたら、俺は撃っただろう』
『それじゃあ俺たちは逃げればよかったんだな』って俺が言ったら、ロシア人はにやりと笑っていたっけ。
孵化場の池では、網で鮭を獲って腹を割いて白子をかけて、孵化させるっていうなかなか大変な作業をして、帰りに大きな鮭を2尾くれた。しかし、孵化場には山ほど鮭がいるんだから、たった2尾の鮭でおずおずと帰るわけには行かない。
日が暮れた頃、こっそり引き返してでっかい鮭6尾背負って帰ったよ(笑い)」
芋を盗みに来たと間違われて…
「樺太の地では、畑で芋もたくさん作っていたから、それもなんとか手に入れたいと思っていたよね。
近くに伯父と叔母が住んでいた放牧地があって、そこで草刈りの仕事を手伝っていたとき、突然ロシア兵からピストルを突きつけられたこともあった。このとき初めて思ったよ、ピストルって筒が丸いのかなって思っていたけど、四角いんだなって。
俺が草を刈っていた場所は芋畑だったみたいで、芋を盗みに来たと思ったんだろうな。ピストルを突きつけられて、“帰れ帰れ!”って怒鳴られたよ。食べ物への執念はときに人を変えてしまうのかもしれないね」
少年時代に戦争を体験し、壮絶な飢えを体験したまさるさん。高校卒業後は北海道の炭鉱に就職し、30代後半で東京の鉄鋼会社に移り、勤め上げた。
70才からは息子の嫁である小林まさみさんの料理アシスタントを経て、現在は料理研究家として活躍している。食に苦心した戦争体験を経て、そしていま食に携わる仕事と向き合っている。
「俺は食べ物がない時代に育って、ものすごく苦労した。だから、なんといってもやっぱり生きる上で食の大切さが身に染みているんだよね。
戦争は恐ろしい。戦争は人を変えてしまう。絶対にやるべきじゃないんだ、何があっても」
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まさるさんは戦時中そして戦後の暮らしを、まるで昨日のことのようにありありと話してくれた。日本では人口の8割が戦後生まれとなり、戦争体験者が少なくなる中、貴重な話をしてくださったまさるさんに感謝したい。
このエピソードは、介護ポストセブンで掲載予定の「小林まさるさんへの相談企画」の取材時、読者から寄せられた“食”にまつわる相談から発展した話をまとめたもの。まさるさんが丁寧に答えてくれた相談企画も近日、お届けする予定だ。
撮影/菅井淳子 取材・文/岸綾香
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