91才の料理研究家小林まさるさんが語る戦争体験「樺太の少年時代、命がけで食糧を求め、氷点下の川で鮭を獲った」
終戦から79年目の夏、91才の料理研究家・小林まさるさんの戦争体験、食を巡るエピソードをお届けする。12才の時に樺太(現在のサハリン)で終戦を迎えたまさるさん。そこで待っていたのは、壮絶な飢えとの戦いだったという。
12才で迎えた終戦「食べ物のため、命がけの日々」
「終戦を迎えたのは俺が12才のとき。食べ物がなくてもうとにかく腹が減って腹が減って。食糧を求めて命がけだったんだ。兵士に銃を向けられたこともあった」
小林まさるさんは、1933年(昭和8年)に樺太(現在はサハリン)で生まれた。樺太は、北海道の最北端、宗谷岬の北方約43kmに位置する島で、まさるさんが育った当時は日本の統治領だった。
蝦夷地とも呼ばれた樺太は、1855年(安政元年)にロシアと交わした日魯通好条約により、日本とロシアの両国民が混在する土地とされていた。
しかし1875年(明治8年)の樺太千島交換条約により、明治政府は千島列島を譲り受ける代わりに樺太を放棄、全島がロシア領となる。
その後、日露戦争で勝利した日本が、1905年(明治38年)のポーツマス条約により北緯50度以南を再び領有することになった。日本とソ連(現ロシア)の領土争いが繰り返されてきた樺太で、まさるさんは少年時代を過ごした。
「俺の親父は樺太の炭鉱で働いていて、俺は9人家族の長男。きょうだいは7人。戦時中、弟や妹はまだ小さくて食べ盛り。防空壕の中で恐ろしい体験やひもじい思いをずいぶんとしたね」
1936年(昭和11年)から始まった第二次世界大戦は6年に及び、樺太では北緯50度線にソ連軍が侵攻を始める。1945年(昭和20年)8月15日、日本全土が終戦を迎えた後も、樺太では熾烈な戦いが続いた。
終戦後も続いた樺太で繰り広げられた激しい地上戦は、“樺太の戦い”と呼ばれ多くの犠牲者を生んだ。そして樺太はソ連に制圧され、ロシアに実効支配されることとなった。
ソ連軍が攻めてきた当時の様子は、まさるさんのYouTubeチャンネル「【まさるが伝えたい事】樺太で終戦を経験した、まさるが戦争について語る。」で克明に語られている。
「傷ついた兵士たちの姿、逃げ回る人々の姿も目の当たりにした。食べるものがなくて誰もが栄養不足だった。弟が膝からガクッと崩れ落ちる姿も見た。
防空壕の中で、親父は一家心中しようと言い、手榴弾を握りしめていた。死を目の前にして思ったのは“無”。恐怖を通り過ぎて、無の状態だった。今でも思い出すと涙が出るよ」(YouTube「小林まさる88チャンネル」より一部抜粋)