《何度も「死にたい」と…》山田邦子が語る実母の介護 海外から帰国後、病院に寄らずに稽古に行ったら“亡くなった”と連絡が それでも「後悔はない」と言えるワケ
『オレたちひょうきん族』『やまだかつてないテレビ』(ともにフジテレビ系)などで人気を博し、親しみやすいキャラクターで知られるタレント・山田邦子さん(64歳)。仕事で多忙を極める中、実母の介護に追われた時期があった。山田さんが語る介護の苦労と“やりがい”とは──。
母親からSOSの連絡がきた
――母親の昭子さんはどんな方でしたか?
山田さん:母が亡くなったのは2023年10月、89歳でした。読売ジャイアンツの大ファンで、ジャイアンツと同じ年なんです。巨人軍の80周年に東京ドームに行ったときには「山田昭子さんも80歳」って大きくスクリーンに映してくれたんです。何万人もの人が「おめでとう!」って言ってくれて、母はそれが自慢でした。あと1年長く生きていれば、90歳でも祝ってもらえたのにって思うと残念ですけど、仕方がないですね。
私は短大生時代に「おもしろい素人」としてテレビに出るようになったのですが、父は私の芸能界デビューに反対でした。既に父の知り合いの建設会社に内定も決まっていたんです。けれど、母は応援してくれました。衣装を作ってくれたり、寝坊したら「任せとけ!」とか言って車を運転して局まで送ってくれたりしてね。デビューしてから1年ぐらい父は口をきいてくれませんでしたが、母は味方になってくれました。
――介護が始まったのは2020年頃。昭子さんが転倒したことがきっかけだとか。
山田さん:家で転んで、脇腹と足の骨を折ってしまったんです。元々はスポーツウーマンだったのですが、動かないうちに足の筋肉が衰えて立ち上がれなくなり、掴まることもできなくなり、とうとう寝たきりになり……。今思えば、そうなる前にやれることがあったと思います。
私は兄と弟の3人きょうだいで、8歳下の弟は両親と最期まで同居していました。父は1998年に心臓発作で亡くなりましたから、弟は1人で母の介護をしてくれたんです。介護は初めての経験で、根を詰めすぎたんでしょうね、弟の具合がだんだん悪くなっていきました。弟が先に死んでしまうんじゃないかと、母から私にSOSが来たんです。
母親は「早く死にたい」と口にするように
――それから山田さんは、介護のために毎日のように実家に通うようになるんですね。
山田さん:そうです、最後の2年間ぐらいですね、私は仕事をしながらですけど。その頃の母は立ち上がれないものの、ゆっくりですが自分で食事をしたり、喋ったりできました。それもあっという間にできなくなって、いよいよ本当の寝たきりになった頃に、また弟の調子が悪くなってきたんです。
介護に無知だったのですが、調べたらヘルパーさんが来てもらえることがわかって、そこからやっと要介護認定を受けることになりました。要介護認定を受けたら、母は要介護度の中で最も重たい状態の「要介護5」でした。もっと早く調べておけばよかったですね。
――ホームヘルパーを利用することで、介護状況は変わりましたか?
山田さん:私たちの負担が減ったことはもちろん、介護を受ける母も楽になったと思います。ヘルパーさんはすごいですね、小柄な女性でもアッサリ母を起き上げるんです。弟も驚いていて、介助のコツを学んでいました。私も、ホットタオルの作り方とか、便秘でも排便を促すストレッチ方法とかを一緒に勉強しました。
母のオムツを替えたり、お風呂に入れたり、食事をさせたり、褥瘡(じょくそう ※組織への持続性圧迫や摩擦・ずれによる循環障害によって組織が局所的壊死を起した状態)の防止に姿勢を変えたりと24時間体制の介護をするわけですが、大変ではあるけれど、楽しいこともいっぱいあるんです。
例えば、母の好物のみたらし団子を口の中に入れると、満面の笑みを浮かべて喜んでいたりしてね。今まで私は仕事が忙しくて母と過ごせなかったから、密な時間を過ごすことができました。
けれど、母は「死にたい」と口にするようになりました。私たちに迷惑をかけたくないんでしょうね。親心かもしれませんが、「早く死にたい」と言われると、つらいし、悲しかったです。私が何度も聞いたくらいだから、弟はもっとこの言葉を聞いていたと思います。
――弟さんの反応は?
山田さん:弟は、母がよくなると信じていたので、筋力が戻るようにと足をマッサージしたり、脳がまた活性化するんじゃないかと手を動かしたりと、一生懸命やっていました。母は飲み込む力が弱っていたので、唾液が喉に詰まっちゃうんですね。だから喉の手術をした方がいいんじゃないかと、あきらめずに治る方法を模索していました。
介護をやりつくしたから、笑って見送れた
山田さん:そうしているうちに、家の近所にすごくいいサービス付き高齢者向け住宅があることがわかったんです。素晴らしいサービスでした。私たちだって一生懸命に母をお風呂に入れたりしてたんですけど、ホームに入ったら母がどんどんピカピカになっていきました。もっと早く入居させていればよかったです。
けれども食事ができない日が続いて、点滴を打つ腕も細くなってしまった。体重は17kgも減って、わずか28kgになっていました。最期は病院で、眠るように逝きました。老衰です。大往生だったと思います。
――山田さんは看取ることができたのでしょうか?
山田さん:当時はコロナ禍で多くの病院が面会不可でしたが、母が入院した病院は会うことができました。だから毎日のように通っていたんですけど、仕事で海外に行くことになったんです。海外でも弟と連絡を取り合って、ビデオ通話で母の状態を見ていたのですが、「そろそろかも」って状態で。帰国して羽田から弟に連絡すると「まだ大丈夫」と言っていたので、病院には寄らずに舞台のお稽古に行ったんです。海外で2日休んでいましたからね。だけど、稽古場に着いた時に、母が亡くなったと連絡がありました。
羽田から病院に行っていたら看取れたと思うと、残念な気持ちもあります。けれど、十分にお別れをする時間があったので後悔はありません。弟が「帰国したよ」と母に報告したから、母は安心して逝ったんじゃないかって、「まだ帰ってきてない」って言えばよかったねって弟と笑いながら言えたのも、私たちができる限りのことを精いっぱいやりつくしたからだと思います。
◆タレント・山田邦子
やまだ・くにこ/1960年6月13日、東京都生まれ。1980年に芸能活動を開始し、翌年にデビュー曲で有線大賞新人賞を受賞。1982年第20回ゴールデンアロー賞受賞(第27回にも受賞)。1988年~1995年まで、NHK「好きなタレント調査」において8年連続で第1位。2007年に乳がんが発覚し(のち寛解)、がん啓蒙活動も行っている。2020年より約2年、母親の介護を行う。
撮影/浅野剛 取材・文/小山内麗香