兄がボケました~認知症と介護と老後と「第27回 我が家に宿泊客」
ライターのツガエマナミコさんは、長年、認知症の兄と2人で暮らしていましたが、その兄は昨年特別養護老人ホームに入所しました。一人暮らしになったマナミコさんの家に、初の宿泊客がやって来たというお話です。
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関西のお友達が泊まりに来ました
「今度、仕事で東京に行くんだけど、マナミコちゃん家に泊めてもらえないかしら」
そうお電話してきたのは、かつて東京でお仕事をしていた編集者さまで、数年前にご実家のある関西に戻ったお仕事仲間でした。これまでも何度か東京に来ることがあって、ご飯などをご一緒する気心の知れた同年代の友人なのですが、宿泊のお願いは初めてでございました。たぶん出張費が厳しいのでございましょう。
海外からの旅行客が日本を席巻する中、国内の宿泊施設料金が急上昇しているというニュースは「耳にタコ」ほど聞いております。格安ビジネスホテルでも数年前の1.5倍となり、多くのサラリーマンはカプセルホテルを利用しているとか。そのカプセルホテルでさえ、先日のGWには高級ホテル並みの価格になったというのですから、日本人には厳しい世の中でございます。
彼女には前々から兄の愚痴を聞いてもらい、ようやく施設に入所したことも話していたので、一縷の望みをかけたお願いだったのだと思います。「いいよいいよ、来てくれたら嬉しい!」と快諾したのは言うまでもございません。もちろん我が家は都心からはすこし離れておりますが、それでもバカ高い宿泊代を払うよりはマシでございましょう。1部屋空いておりますし、親の代からある来客用のお布団を処分するか思案中だったので、いいタイミングでございました。
思えば、このマンションに越して来て6年目にして初の宿泊客でございます。
家の中で兄が排泄物をまき散らしていたことはあえて告白しませんでしたが、まぁ、知らない方が気持ちよく泊まっていただけるかと思い、親切のだんまりを決め込みました。
夜9時頃に最寄り駅までお迎えに行くと、五月晴れのような真っ青のスーツケースを引き、パッチワークのカラフルなロングスカートで、顔の半分を覆い隠すような大きな眼鏡をかけた小柄な彼女が目に入りました。地味なサラリーマンや学生が多い小さな駅で、異彩を放つ彼女が「いろいろごめんね~」と言いながら改札を抜けて近づいてきたとき、別に冷たい視線を浴びたわけでもないのに「いや、その、彼女、関西人なんで」と周囲に言い訳したくなりました。
翌日は昼すぎからお仕事だというので、本当に短い時間でしたが、お茶をしながら雑談したところによると、彼女は90歳越えのご両親がご健在で、妹さまが同居して在宅介護中とのこと。彼女はご実家の近所にパートナーとともに移り住み、姉妹で助け合ってご両親を看ていらっしゃるのです。お父さまはご自身で有料老人施設を探して、近々入居される予定だそうですが、お母さまはお元気でご近所のお仲間とお出かけされたりもするそうでございます。「でもごはんは作れないから毎日作りに行かなくちゃいけなくて」と愚痴っておりました。
翌朝は駅でブランチをご馳走になり、お見送りとなりました。昨夜とは違いモノトーンの出で立ちで、例の真っ青なスーツケースを引いて颯爽と改札を抜けて行かれました。
「こっちの方に来た時はうちを定宿にしていいからね」と申し上げると、「え~ほんとぉ? じつは夏にまた来る予定があるから、日程決まったら連絡させてもらっていい?」とさっそく次回の予約の予告。わたくしは楽しいし、彼女は経費が浮くWINWINの関係。元来ずぼらなので、たまにお客さまに来ていただいたほうが家をキレイに保てるという意味でもわたくしはWINでございます。
2年前には胃を悪くして入院していた彼女は超細身。こまめに薬を飲んでおり、仕事もハードで、おまけに介護もある…。近頃、わたくしの周囲は親の介護ラッシュでございまして、みなさま満身創痍。わたくしだけが一抜けして悠々自適に暮らしているといったところ。どなたさまも、はやくわたくしに追いついてくれるといいなと思っております。
さて、今週の兄ですが、すこし反応が少なくなっておりました。スタッフの方によると「ここのところ、すこし言葉が悪くて、お食事は皆さんより早く、お一人で召し上がっていただいています」とのことでございました。おそらく「ばかやろう、何すんだよ!」といった暴言を吐いてしまうのでございましょう。そのせいで精神を安定させる薬が増えたのか、表情があまりなくなっておりました。手をつないで歌を歌うと、リズムに合わせてかすかに手を握ってくれることだけが救い。この反応がなくなったらどれだけ寂しいか……。
「一時的なことで、またすぐ皆さんと一緒に食べられると思いますけど」と言われましたが、この先がどうなるのか考えると不安になります。わたくしにできることは、せめて面会の間だけでも笑顔をたくさん見せてくれるように歌を歌うことだけ。童謡や唱歌のレパートリーを増やして次回の面会にのぞむ所存でございます。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性62才。両親と独身の兄妹が、2012年にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現66才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。2024年夏から特別養護老人ホームに入所。
イラスト/なとみみわ