80才の人気インフルエンサー”森ママ”こと森桂子さん、親の介護で学んだ死生観「人は最後まで生きたいと願うもの」
「森ママ」の愛称でインスタグラムを中心に、多くのシニア世代から支持をされている森桂子さん(80才)。自身の経営するセレクトショップには全国からファンが訪れる人気ぶりだ。彼女はどんな人生を歩んできたのだろうか。OVER60のシニアインフルエンサーの素顔に迫る企画、森ママの人生に迫ります【Vol.1/全3回】。
森桂子さん/プロフィール
森桂子さん/1945年横浜生まれ、80才。2人の子供を育てながらバー経営、ペットのトリミングサロン、リサイクルショップを開業・運営するなど事業家として活躍。化粧品や健康食品の販売営業にも携わり、現在は横浜・本牧でセレクトショップ「ケセランパサラン」オーナー。76才でインスタグラムを始め“森ママ”の愛称で人気に。愛犬・トイプードルの美空ちゃん(16才)と暮らす。m.misora5
森ママ、76才でインスタを始める
セレクトショップのオーナーを務める森ママこと森桂子さんは今年80才。生まれ育った横浜の本牧でセレクトショップを経営している。お店には森ママのトレードマークでもあるサングラスやエレガントな服やバッグがところ狭しと並び、愛犬の美空ちゃんも訪れる客を優しく受け入れてくれる。
――お仲間やファンから“森ママ”と慕われています。
昔っからそう呼ばれているのよね(笑い)。元来おせっかい焼きで仕切り屋の“ママキャラ”だったからかもしれませんね。ずっと人が集まる交流の場を作りたいと思っていたのよ。高齢になると行く場所がなくなるじゃないですか。誰かとおしゃべりできる場が必要だと思っているのよ。
真代さん(島崎真代さん・71才、ファッション系インフルエンサー)に「ママもSNSで発信してみたら」と背中を押され、76才のときにInstagram(以下、インスタ)を始めました。
真代さんは元々うちのお店のお客さんなの。以前やっていたリサイクルショップの店先でカフェもやっていたんだけど、ピザトーストがおいしいってSNSで発信してくれてね。彼女に教えてもらいながらインスタを始めましたけど、フォロワーさんが会いに来てくださるようになって、本当にありがたいことよね。
→70代のファッション系インフルエンサー島崎真代さん、 フォロワー数3万人超、SNSで支持される理由は「親しみやすさかしらね」
生後8か月で実母を亡くし波乱万丈の人生が始まる
――これまでどのような人生を歩まれたのでしょうか。
「今年80才なのよ、どこまで遡ろうかしら(笑い)。
私は生まれも育ちも横浜、生粋のハマっ子。戦後間もない頃、実母は生後8か月のときに亡くなって、父親も再婚後には私を置いて出て行ってしまったの。それからは親戚の家を転々として、叔母(父親の妹)に育ててもらいました。実母が亡くなったときの記憶はなくて、叔母のことをずっと母親だと思って育ってきました。
あるとき経営していたバーのお客さんに不思議な力があるかたがいて、「あなたは生後8か月でお母さんが亡くなっているようですね」と言われたんですよ。家に帰って聞いてみたら本当だったのよ、そのとき初めて自分の生い立ちを知りました。お墓も探して行ってみたら本当に私が8か月のときに亡くなっていて、これには驚きましたね。
叔母(以下、母)は結婚していましたが、子供がいなかったこともあって私のことを実の娘のように愛情深く育ててくれました。
母の夫、育ての父親は5才のときに病気で亡くなりましたから、母は女手ひとつで私を育てるために苦労していてね。とにかく貧乏だったし、大変な思いはたくさんしてきましたけど、そんな幼少時代が私を強くしてくれたのかもしれませんね。
お金なんてなかったはずの母が、運動会のときに当時贅沢品だったバナナを2本持たせてくれたことがあって、嬉しかったことを覚えています。
私、小さな喜びを大きく感じることができるし、大きな不幸は小さなものに思える。そういう能力が身についているみたい。よくお悩み相談を受けることもありますけど、苦労を重ねてきましたから。少しばかり人生の知恵があるのかもしれませんね。
育ての親の介護で学んだ「人は最期まで生きたい」
――育ての親である叔母さまの介護をなさったそうですね。
21才のときに結婚して、長らく専業主婦でした。長男が小学5年生、長女が小学3年生のときに離婚をしまして、子供たちと一緒にふたたび母と一緒に暮らすようになりました。
とにかく子どもたちを養わないといけないですからね、昼も夜もがむしゃらに働きました。
母は体が弱くて喘息持ちだったため、晩年は床に伏せることも多くなっていきました。当時は忙しかったから気持ちに余裕がなくてね。弱っていく母に対して、「なんでちゃんと自己管理できないの?」って、キツくあたってしまうこともありました。
当時は介護保険なんてないですから、お金もかかるでしょう。母につきっきりで看病もできないから、介助の人を雇わなくちゃならなくてお金も出ていきましたね。
母は終末期には入院して人工呼吸器をつけていたんですが、どうも苦しそうだから『先生、もう楽にさせてあげたい。その管を抜いてあげてください』とお願いしたんです。私がそう言うと、母は急に自発呼吸するようになったのよ。母の看取りから学んだのは、人間はそう簡単には死なない、最期の最期まで「生きたい」と願うものなのだということ。
母は延命措置をやめてから数日後に静かに息を引き取りました。今考えると68才、若かったわよね。母の介護をしていた時代は色々あったけれど、辛かった記憶は飛んじゃって真っ白。今は楽しい想い出だけを抱えて生きています(笑い)。
取材・文/廉屋友美乃