シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<9>【連載 エッセイ】
長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。
桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」の連載が始まりました。
若いときには気づかない発見や感動…。シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を。
さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!
【前回までのあらすじ】
ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、セント・デイヴィッズに訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていたが、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発。
飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地であるセント・デイヴィッズに到着した。
宿に荷をほどき、早速、大聖堂を目指す…。第7回からは、紀行記をひと休み。大聖堂「セント・デイヴィッズ」についての解説を。
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IV 大聖堂「セント・デイヴィッズ」と炎の聖職者ジェラルド<3>
●英仏百年戦争の本質
一般的には、その同化が始まったのは英仏百年戦争(1337年~1453年)の後半からだといわれている。
あの有名な百年戦争は、イギリスとフランスという、すでに出来上がってしまった国同士の戦争であると考えられがちだが、実はそうではない。
いうならばあれはフランス人同士の、いわば身内の戦いである。1066年のノルマンの征服以来、ブリテン島の征服者として住み着いたノルマン人の実体は、フランス語を話す「フランス人」に他ならなかった。
イングランドの国王たちもノルマンの征服以降は、ギヨーム、アンリ、リシャール、ジャンといったフランスの名前を持つフランス人ばかりになった。
これらは後に英語がイングランドの公用語に戻ってきたときに、ウィリアム、ヘンリー、リチャード、ジョンと英語風に発音されるようになったのだ。
そのブリテン島に住むフランス人の子孫たちと、彼らの本国フランスとの間で起こったのが百年戦争で、イングランド国王エドワード3世が、フランス王位継承権を主張して始まったものだ。
エドワード3世の母は、直接の継承者がいないまま死去したカペー朝のフランス国王シャルル4世の妹イザベルであり、ゆえにエドワード3世のフランス王位継承の主張はそれなりの根拠があったのである。
余談だがこのエドワードという名前は、フランス由来ではなく、アングロサクソン人固有の名前エアドワルド(Eadwald)からきている。
ノルマンの征服の後、王様の名前がすべからくフランス風に変わったわけではないのである。現在のイギリス国民は、ウィリアムとかヘンリー、チャールズ(シャルル)等の王室で使われている名前の中で、エドワードに対しては格別の思いを抱くと聞いたことがある。
●フランス人の子孫としてのアイデンティティ崩壊
話を戻すと、だから百年戦争は身内の争いのようなものである。
非難を覚悟で例えてみるなら、養子に行って他家に入った者が、実家の相続争いに口を突っ込んだとでもいうか。
この養子に、実家が「おまえはとうに他家の人間になったのだから、いつまでもこっちの問題に首を突っ込むな。いい加減に向こうの人間になれ」といって始まった戦争なのだ、と。
この場合、養子がイングランド国王で実家がフランス王家である。
この百年戦争に、イングランドの貴族たちは領地の兵を引き連れてフランスに渡ってきた。
その兵たちはノルマンの征服以降、被征服民となったブリテン島土着の英語を話すアングロサクソン人、そしてウェールズ語を話す若干のウェールズ人だが、上級指揮官たる貴族やその直属の身分の高い家臣団はノルマン人の末裔で、ふだんからフランス語を話している。
だから兵はともかく、少なくとも遠征してきたイングランド軍の上層部は、フランス軍とのやり取りや交渉には何のコミュニケーション上の不都合もなかったはずだ。
彼らイングランド貴族たちには、先祖伝来の地に戻ってきたという高揚感もあったかもしれない。
しかし、ほどなく彼らは愕然としただろう。「先祖の地」のフランス兵から、「このイングリッシュめ!」と憎々しげに罵声を戦場で浴びせかけられたに違いない。彼らは一様にはっとしたはずだ。
―そうか、俺たちはもう、本国の連中にとってはイングリッシュなのだ。かつて俺たちの祖先が征服し、いま俺たちの僕になっているイングリッシュやウェールズ人と同じブリテン島の住民に、俺たちは連中の目に映っているのだ―
こうして、百年戦争の中盤以降、ブリテン島の征服者ノルマン人のアイデンティティ崩壊が始まっていく。
有名なのはチョーサーで、彼は百年戦争に従軍したがフランス側の捕虜になり、国王エドワード3世が支払ってくれた身代金によって解放された苦い経験を持つ。
それを境にチョーサーはそれまで使っていたフランス語を止め、英語で話したり書いたりするようになった。彼の有名な『カンタベリー物語』は、ノルマンの征服以来、長い間書き物に使われなくなっていた英語をチョーサーが意識して用いて世に出した作品で、英語の復権の象徴とされているイギリス文学史上の傑作である。
百年戦争を境に、ブリテン島のノルマン人の子孫たちは、自分たちはもはやブリテン島の住民であるとの認識、すなわち歴史学にいう「ブリティッシュ・アイデンティティ」を確立していったのである。
●ジェラルドとの出会いの顛末
しかし、これはあくまでも一般論で、実際にはノルマンの征服後それほど時間がたっていない頃に、一部ではすでに彼らのブリテン島の住民への同化(assimilation)は起こり始めていたという。
で、私は彼らの同化の、もっとも初期の段階を探り、それを論文に書きたかったのだ。
それで、複数いる私の論文の指導教授の一人にアドバイスをもらいに行ったところ、彼は、初期の段階にせよノルマン人の同化の問題はあまりにも大きすぎる(too huge)テーマである。もっと絞ってみたらどうか。たとえば特定の人物にスポットを当てた人物史みたいなものにしてはどうかと助言してくれた。
そして、彼が親切にもリストアップしてくれた関連書籍の中から、私はジェラルド・オブ・ウェールズを見つけた。初めて聞く名だが、ざっと目を通した限りなかなか面白そうな人物だと直感した。
後日、その担当教授に「ジェラルドで行きます」と告げると、「君は最高にいい人物を選んだ。おめでとう!」と喜んでくれた。ほどなくわかったが、彼はウェールズ人だった。
ほんと、私は最初からウェールズに縁があった!
それからは、私はジェラルドの論文書きに没頭した。大学のパソコンと、日本から持って来た当時では最新のNECのPC98キャンビーの前にへばりつきとなった。
The Beautiful Southの“Don’t Marry Her”が一日何回も流れるFMラジオをつけっぱなしにしながら、とにかく明けても暮れてもキーボードをたたいていた。
家族サービスを全くしないので、カミさんと日本人学校に通う小学三年生の娘は勝手にパリのユーローディズニーランドに遊びに行ってしまった。一方、私はパソコンの前でますますジェラルドの虜になっていく。
―こんな面白い男がいたのか。すごい荒くれ坊主だな。マノービアの領主である兄フィリップのノルマン兵を使って、フランドル人を脅して教会の10分の1税をふんだくるんだ。しかし、すごい!あんなに軽蔑していたウェールズ人の味方になって、いや、ウェールズ人そのものになって、それまで喋れなかったウェールズ語もマスターして、最後はウェールズの王族たちの手紙を携えて、今度こそはと教皇を説得するために、ブリテン島の西の端の「セント・デイヴィッズ」から三度、あの遥か彼方のローマに向かうんだ。「セント・デイヴィッズ」の司教となり、ついにはウェールズの大司教となって、イングランドの抑圧からウェールズを解放するために。すごい体力だなあ、とんでもない男だなあ―
●無事、パス!
そして、論文は書きあがり提出も済んだ。” The Genesis of British Identity and the Case of Gerald of Wales.” (『ブリティッシュ・アイデンティティの起源とジェラルド・オブ・ウェールズの場合』)。
自分でいうのもなんだが、題はかっこよかった。問題はパスするかどうかだが、結果発表はかなり先であり、ビザの期限の関係もあるし、私たち家族は1997年の10月初めに帰国した。
日本で連絡を待つことになったのである。それからは毎日気がかりでならなかった。論文、学科ともパスし、無事MAを取れたのかどうか。
10月末、郵便で結果は届いた。見事合格!とくに論文の評価が一番良かった。
学科の「ラテン語」、「中・古英語」、「法と社会―コンスタンティヌスからシャルルマーニュまで」の三つは、まあ、ぎりぎりだった。
心底ほっとした。いいようもない深い安堵の息が肺の奥底から出た。もしも不合格だったら、何のために40歳を過ぎて中年留学したのか。
すべてがダメになり、ここまで何とかそれなりに著述家、歴史家として歩んできたいまの私も全く存在していなかったことは確実である。留学で貯金だけがなくなり、カミさんや子供までも巻き込んで惨めな暮らしをしていたかもしれない。いまも決して裕福ではないが。
UCLの史学科大学院で、しかもラテン語も古英語もやらなければならない語学地獄の中世学専攻という、おそらく過去には日本人の修了者は誰もいなかったのではないかと推測されるコース(間違っていたらごめんなさい。なにせこれは私の担当教授から聞いた話ですので)で、何とか踏ん張ることができ、無事修了という人様に報告できる「形」を得られたことが、今日のエネルギーとなっている。
つくづく、パスできて良かった。いまも冷や汗が出る。しくじったことを想像すると。それみたことかと。
それもこれも、ジェラルド・オブ・ウェールズという、これ以上ない最高の人物に出会えた幸運が私にあったことだ。論文を書く上で、こんなにも魅力的で、面白くて、やる気が出て仕方がないこの素晴らしい「坊主」に会えたおかげだと、私は心から思っている。
そんなジェラルドは、私がこの論文をより読みやすくかみ砕いて、日本の一般読者向けに歴史本として出版することをも可能にしてくれた。
その本が、これまでさんざんいっている、エドウィナ・ハート大臣にも献呈し、これからジェラルドが眠っているといわれる「セント・デイヴィッズ」に奉納しようとしている『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代』(吉川弘文館)なのだ。
私はいま、20年かけてジェラルドにお礼をいいに行く。もう、感無量。ジェラルドに会えたら、私は泣いてしまうかもしれない。
桜井俊彰(さくらいとしあき)
1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。