倉田真由美さん「すい臓がんの夫と余命宣告後の日常」Vol.80「いつか行きたかった鮎の獲れる村」
漫画家の倉田真由美さんの夫で映画プロデューサーの叶井俊太郎さん(享年56)は、鮎が好物だった。とりたてて食にこだわりがなかった夫が、唯一思い入れがあったのが”天然もの”の鮎。なぜ彼は鮎にこだわったのだろうか。その背景を振り返り、今想うこと。
執筆・イラスト/倉田真由美さん
漫画家。2児の母。“くらたま”の愛称で多くのメディアでコメンテーターとしても活躍中。一橋大学卒業後『だめんず・うぉ~か~』で脚光を浴び、多くの雑誌やメディアで漫画やエッセイを手がける。新著『抗がん剤を使わなかった夫』(古書みつけ)が発売中。
夫の好物は「鮎」
たまに行く近所の魚屋で鮎を見つけたので買いました。小ぶりの養殖鮎が3尾で480円。鮎が美味しいシーズンはこれから、稚鮎が少し大きくなったくらいのサイズでした。
実は、夫は鮎が好物でした。でも、スーパーや都内の魚屋で買ったものは食べませんでした。
「だって、美味しくないんだもん」
ファーストフード大好き、ファミレス大好き、駄菓子大好き、添加物気にしない、コーヒーもインスタント大好きの夫が、鮎だけは「天然ものの、しかも獲れたてじゃなきゃ」と言うんです。他の魚は気にしないのに、秋刀魚の塩焼きやサバの味噌煮などは気にせず食べるのに、鮎だけ。
「なんで鮎にだけこだわるの?」
理由を聞くと、夫の子ども時代の体験が原因でした。
夫の幼少期の体験
夫の母方の実家は岐阜県の山村にあり、夏休みなど祖父母の下で長く過ごしていたそうです。その時、獲れたての天然鮎をお腹いっぱい食べさせてもらっていたと。
「だからさ、スーパーのとか、買ってきたやつはまずくて食えないんだよ」
娘が鮎大好きなので時々食卓に並べていましたが、夫はそう言って一度も箸をつけませんでした。
「俺、本当は鮎めちゃくちゃ好きなんだけど」
もう一度祖父母の家があった◯◯村で食べた鮎を食べたいなあ、と言っていました。◯◯村で過ごしたエピソードは他にも、松茸も採り放題食べ放題だったとか、自動販売機が初めて村に来た時は村中の人が集まってワイワイ騒いだとか、印象深い話がいろいろありました。
「自動販売機がなかったの?あなたが子どもの頃に?」
「なかったんだよ。そのくらいの田舎なの」
鮎も松茸も食べてみたいし、いつか行ってみたいねと夫婦で話していました。でもそれは実現しないまま、夫はいなくなってしまいました。
「いつか行きたいね」は、言うだけではダメみたいです。忘れてしまったり、機会を逃すことがあります。夫がいないので、夫の祖父母(既に故人)の実家やその周辺に行くこともないでしょう。夫という水先案内人なくしては、私一人で行ってもその良さや面白さを味わうことはできませんから。
ネットで調べると、◯◯村は20年ほど前に周辺の市町村と合併して、今は村としては存在しないようです。綺麗な川の画像はいくつか出てきますが、夫がその川のどの辺りで遊んでいたのか、夫自身も鮎を獲ったことがあるのかは永遠に分かりません。