シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<10>【連載 エッセイ】
長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。
桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」の連載が始まりました。
若いときには気づかない発見や感動…。シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を。
さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!
【前回までのあらすじ】
ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」に訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。
そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。
飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。
宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー へリグ)」だ。早めの到着だったが、優しい主人に迎えられ、スムーズにチェックイン。荷をほどき、早速、大聖堂を目指す。第7回、第8回、第9回での、大聖堂「セント・デイヴィッズ」と、「ジェラルド・オブ・ウェールズ」についての解説を経て、いよいよ、目的地へ…。
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(2017/4/10 セント・デイヴィッズ)
V カテドラルで、二〇年目の邂逅【1】
●第1次世界大戦戦没者メモリアル
道の右側の、牧草地に放された羊たちを眺めながら私は進んだ。早く大聖堂につきたいのだろう。私の歩みはいつもより少し早めだ。
すぐに羊たちは消え、街並みが現れた。カラフルで、小さな建物が寄り添っている。郵便局があり、土産物店、飲食店がならぶ。門前町の雰囲気がありありである。道は下り気味になり、あっという間に町の中心と思われる地点に来た。
ほんと、小さな町だ。すぐ目の前の、道路の真ん中に周囲を石の低い壁で囲った人が集まることができる丸い、小さなスペースがあることに気づく。
そこには細い、先端に十字架のある石の塔が建っている。町が石壁に貼ったパネルに記されている説明文を読む。
ここはこの界隈から第1次世界大戦に出征し、亡くなった人たちを弔うメモリアルスペースであることを知る。
しばしば聞くことだが、ヨーロッパでは近代的な兵器を用いて殺しあった、初の世界戦争である第1次大戦の印象のほうが、第2次大戦のそれよりよりもはるかに大きく、各国各地にある戦没者メモリアルを訪れ献花する人が絶えないという。
ここもそういうところなのだ。ごく自然に、頭(こうべ)が碑文の前で下がってきた。ただの旅人にすぎない私なのに。
顔をあげ、西を、つまり進行方向に目をやる。見えた。カテドラルの先端が。「セント・デイヴィッズ」の塔の最上部が。
道はさらに下っている。どんどん私は進む。徐々に塔の全体が見えてくる。
そう、「セント・デイヴィッズ」は谷の底にあるのだ。東側と西側が盛り上がった地形の底の部分にこの大聖堂は建てられている。
だから、近づいて行くと先端部から見え始める。なぜ谷底につくったのか。その理由の一つが、デーンの来襲から逃れるためだったといわれている。
●デーンに狙われた修道院
英国史で伝統的にデーン(デンマーク人)と呼ばれるバイキングは、船を連ねてブリテン島に大挙来寇(らいこう)し、海岸線を回りながら襲撃する場所を船上から物色した。
時には川をさかのぼり内陸深く侵入して村々を略奪しまわった。高価なものは持っていかれ、人々は無意味に殺され、あるいは連行され彼らの本国で奴隷となって酷使された。そして動けなくなったら捨てられ惨めに死んでいった。
今日、北欧ではバイキングの宝探しと称するトレジャーハンティングが時折行われているが、当時ブリテン島から略奪された、あるいは貢納金として持っていかれた銀貨が現在も少なからず発見されるという。
こんなデーンにとって、修道院といった教会施設はこれ以上ないうま味のある襲撃対象だった。
そもそも修道院は、神に仕える者たちの世俗界から離れた修行の場だから、人々が容易には近づけない、つまりいざというとき簡単には救援に行かれない辺ぴな場所にある。
断崖絶壁、山の中、国の端というところは修道院の立地としては恰好の場なのであり、荒々しい海岸沿いに修道院が多いのはこういう理由による。
その修道院には何よりもデーンが欲する金銀財宝があった。当然である。
土地の有力者、領主、そして国王、一般人民まで、なけなしの物品を神のいっそうの加護を願って修道院には競って寄進したからである。おまけに修道院にいるのは僧だけで、武装した襲撃のプロであるデーンにとっては赤子の手をひねるようなもの、いやもっと簡単だった。
ブリテン島に来寇した異教徒の彼らが真っ先に目を付けたのが、こんな修道院だったのである。
●「セント・デイヴィッズ」が谷底にある理由
もっとも襲われる側も、ただやられるだけだったわけではない。
修道院によっては常駐の守備兵を置いたり、自ら武装したり、地域に狼煙(のろし)などの緊急連絡手段を設けて対処した。
また、修道院の立地場所も、海から来るデーンに目立たないところに移転したり、初めから見つかりにくい場所を選んで建てたりした。
ゆえに「セント・デイヴィッズ」が谷底にある大きな理由の一つに、船で岬を回って襲撃先を物色するデーンから発見されないため、というのがあるのもなるほど、と思う。
しかし疑問もある。
アングロサクソン年代記(The Anglo-Saxon Chronicle)には8世紀後半、789年に3隻のデーンの船がドーセットに来寇したことが記されており、一般的にはこれがデーンのブリテン島来襲の始まりだとされている。
一方、言い伝えのように「セント・デイヴィッズ」がデイヴィッドによって建てられたとすると、その創建年代は6世紀のいつか、ということになる。
これではデーンのブリテン島初来寇の時より、200年も前に「セント・デイヴィッズ」がすでにあったということになり、デーンに襲われるのを防ぐために谷底に建てたという説明とは時代が合わない。
もっともデイヴィッドが建てた最初の修道院は今とは違うところにあって、デーンの襲撃が激しくなってきたので今の場所に建て直されたと考えれば、矛盾もなくなるのかもしれない。
「セント・デイヴィッズ」の公式ガイドブックによると、ここは10世紀から11世紀にかけてデーンに数回襲われ、二人の司教が殺されているという。
それゆえ、ここの聖職者たちはデイヴィッドの遺物をもってあちこち避難しなければならなかったようで、その結果11世紀初めのある時、「セント・デイヴィッズ」はほんのわずかな間だが見捨てられた格好になった、とある。
今日の大聖堂は、もちろん、デイヴィッドが建てた時のものではなく、この威容はジェラルド・オブ・ウェールズの手によるものと、同ガイドブックには記されている。
まあ、デーンの襲撃を避けるためにこの谷底を選んだという説も一理はあるが、結局はこの谷底でもデーンに見つかってしまった、ということだ。
●沈める寺院
私は「セント・デイヴィッズ」の門に着いた。時計を見る。グレッグのいった通りだ。
ティー・ヘリグから歩き出してきっちり5分。さすがB&Bの主人である。この町を知り抜いている。
その5分で羊のいる牧草地のすぐ脇を通り、カラフルな家々を横目で楽しみ、第1次世界大戦戦没者のメモリアルに遭遇する。
いろいろな要素があるが、「セント・デイヴィッズ」の町は基本的にはとても小さいことがよくわかる。門をくぐる。全容が視界いっぱいに飛び込んでくる。
ついにたどり着いた。「セント・デイヴィッズ」大聖堂に。
写真ではこれまでもう数えきれないほど見た。そのカテドラルが今目の前にある。空にはこれ以上ない青さが広がっている。
歓迎されている…。そう思いながら、いや、そのようにカテドラルに迎えられていると思いながら、私は大聖堂の西の隅にある入り口を目指し、さらに敷地内の通路を下って行く。
斜面の敷地にはあちこちに墓石が立っている。はるか古い時代から、この大聖堂にゆかりのある人たちがここで眠っている。
私はどんどん斜面を下りる。もうこれ以上降りなくていい谷の一番深いところ。そこに大聖堂は建ち、入り口があった。まさに「沈める寺院」である。
●温かい木調のネーブ
私は大聖堂の西の端の入り口から中に入った。
天井が高い。思い切り顔を上に反る。樫の木の落ち着いた色彩の天井板、そしてそれを支えるアーチ状の大理石の柱、また柱。
ここは一般的にネーブ(nave=身廊〈しんろう〉)と呼ばれる教会堂の入り口から祭壇にかけての中央部であり、木製の長椅子が祭壇の前から幾列も連なって置かれている。
人々が祈りをささげる場所がここであり、週末の夕方などに地域の人々に向けて教会の少年コーラス隊が賛美歌を歌うのもここである。
祭壇部に近いネーブの天井からは木製の、十字架上のイエス・キリスト像が懸架(けんか)されている。下からはそれは小さくしか見えないが、カメラのレンズをズームに取り換えてみるとそれはなかなかにリアルに見る。
樫の木でつくられた天井のせいか、大聖堂の内部はとても落ち着いた雰囲気である。
中に入った第一印象としては、決して豪華ではない。
私はロンドン留学時代に、ウェストミンスター寺院には何度も行ったし、ちょっと足を延ばしてカンタベリー大聖堂も訪れた。
それらは、建物のスケールとしてはとても巨大で天高く、内部も豪華絢爛だった。
対して、「セント・デイヴィッズ」はいうならば質素に映る。
司教の座がある教会だから大聖堂なのだが、建物の規模はどちらかというと小さく、彫刻やデコレーションの類も決して派手ではない。しかし、素朴で骨太な印象はひしひしと伝わってくる。
これでいい。これでいい。これでこそ、人々の真実の信仰心が伝わってくる。
純朴なウェールズの人々の、心の「基地」は、これでいい。
なんだか、私はこの温かい木調のネーブに佇んでいるだけで、もうじーんときてしまった。
おっといけない。いろいろと尋ねなければ、と、私は入り口の近くにいた案内係の若いモンクのそばに行った。そして、日本で事前に調べておいたことを彼に確認した。
「このカテドラルにロード・フリースが眠っている石棺(tomb)はあるのですよね。そして、ジェラルド・オブ・ウェールズも」
若い聖職者は穏やかな表情で頷いた。
「はい。お二人ともいらっしゃいます。回廊を奥に進むと、脇にお二人が眠っていらっしゃいます」
桜井俊彰(さくらいとしあき)
1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。