猫が母になつきません 第403話「めいわく」
コロナでいろいろな習い事がすべて中止になり、社交好きな母の楽しみが奪われました。英会話、中国語、洋裁…週に3日はおでかけしておしゃべりするのが母の生きがいでした。人に「いつまでも学びを続けてて偉いわぁ」と言われるのもうれしかった。たとえ宿題をいつもさぼっていたとしても。母はもともと被害妄想はありましたが、家にいるようになってからさらに酷くなり、自分だけが外に出れなくてみんなは集まって自分を排除する相談をしているのだと考えるようになりました。20年も前に亡くなっている父のお葬式をすると言って、何度も近所の人に知らせに行ったりしていたのもお葬式ならみんなが来てくれるはずという気持ちがあったのだと思います。
母は《社会》の中にいたがりました。渇望していたといっていいと思います。その意味で私はまったく役立たずでした。《社会》とは対極の存在です。母の好きそうな本を取り寄せたり、一緒に手芸をしたり、どんなに気をそらそうとしても母の目は《社会》のほうをじっと見ていました。
認知症が進んでいく中でご近所にはほんとうにたくさん迷惑をかけました。町内会の方たちや役場、交番…元気なのでしらないうちに出かけていって妄想話をして困らせてしまうということが何度もありましたが、私があやまりに行くと皆さんやれやれといった感じではありながら「仕方ないよ、みんな歳をとるんだから」と許してくれました。私はだんだん許されることに慣れてきて、高齢者なんだから「甘えていいのだ」とすら思い始めていました。
母が渇望する《社会》を与えるために私は施設を探し始めました。見学に行った施設の中にはほとんどの入居者の方がベッドから自分で起き上がれないような高齢者というところもあり、それだと母は元気すぎるのでデイサービスもやっているようなにぎやかな施設を探しました。コロナ禍で探すのも困難な状況でしたが、幼馴染のいる施設に入れることになりました。知っている人がいるので母もさみしくないと思いました。でもそれは甘い考えでした。ご近所で許されることに慣れていた私は、なんとなく施設をその延長上に置いて考えていました。母を人に預けるということ、人が母を預かるということがどういうことかわかっていませんでした。母を人に預けてから施設でも病院でも「めいわくになる」という言葉をよく言われました。ご近所では「認知症なんだから仕方ない」とゆるりと許されていたことが、そこでは許されませんでした。
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作者プロフィール
nurarin(ぬらりん)/東京でデザイナーとして働いたのち、母と暮らすため地元に帰る。ゴミ屋敷を片付け、野良の母猫に託された猫二匹(わび♀、さび♀)も一緒に暮らしていたが、帰って12年目に母が亡くなる。猫も今はさびだけ。実家を売却後60年近く前に建てられた海が見える平屋に引越し、草ボーボーの庭を楽園に変えようと奮闘中(←賃貸なので制限あり)。