《父の介護での苦悩》作家・荻野アンナさん、缶チューハイを飲んでカッターナイフを忍ばせて父親の病室へ行った過去を告白
寝たきりになっても五感の喜びを感じてもらうように工夫した
――楽しそうなホーム生活ですが、父親の体は徐々に弱っていかれたそうで。
荻野さん:既にミキサー食になっていましたが、それも誤嚥するということで、胃ろうの選択に迫られました。胃ろうは人間としての尊厳が守られないから嫌だという意見もありますね。父にどうするかと尋ねたら、即答で「やる」って。ところが、せっかく胃ろうを作ったのに逆流が止まらなくて、中央静脈点滴ポートを入れることになりました。この時も口から食べられなくなるので父に確認したのですが、「生きるためだったら」と。この点滴だけで1年半ぐらい生きました。
食べられなくなっても、アロマを買っていったり花を飾ったり、寝ていても見えるように天井にポスターを貼ったり、ベッドにベッドメリーを取り付けたり。クリスマスにはケーキのクリームをちょっとだけ舌にのせて、すぐ吐き出してもらって、そうやって最期まで何らかの五感の喜びを感じてもらうように工夫しました。
――父親は2010年、95歳で亡くなります。どのようなお気持ちに?
荻野さん:やり切った感ですね。理想の最期だったとも思います。最期は目を閉じて息だけしてる状態だったのですが、呼吸が浅くなって、止まっちゃったんですね。思わず耳元で「インヘイル!」って、「息を吸って」と呼びかけたら、父は息を吸い込んだ。また息が止まると呼びかけて、それを何度か繰り返して最終的に息を引き取ったんです。最期まで私の声が聞こえていました。
私と父との縁はすごく浅かったんです。父は世界100か国以上を回った船長で、あまり家にいないし、家にいるときはお酒を飲んで怒鳴っているような人でした。子供の時は学校で習った英語とフランス語でようやく話ができるようになったという、変わった親子関係です。だから半ば、なぜ自分は父の介護をしているんだろう、と疑問にもなりました。
そのなかで、自分が手間をかけた分、関係性が深まっていきました。父はわがままなエゴイストでしたが、そのことを自覚した瞬間もあったりして、そういうことが励みになって介護が続いたんだと思います。そして介護を通して親子関係を築けたような気もします。
◆作家・荻野アンナ
おぎの・あんな/1956年11月7日、神奈川県生まれ。フランス文学研究の傍ら作家活動を始め、1991年『背負い水』で芥川賞受賞。2007年フランス教育功労賞シュヴァリエ叙勲。2002年より慶應義塾大学文学部教授、2022年に定年退任し名誉教授。2024年神奈川近代文学館館長に就任。大道芸や落語に強い関心があり、2005年より11代金原亭馬生師匠に入門、高座名は金原亭駒ん奈(二つ目)。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香