《父の介護での苦悩》作家・荻野アンナさん、缶チューハイを飲んでカッターナイフを忍ばせて父親の病室へ行った過去を告白
介護をきっかけにうつ病を発症しながらも、15年という長きにわたって両親の介護をし、その間にパートナーを看取り、自身も大腸がんに罹患――。芥川賞作家で慶応大学名誉教授の荻野アンナさん(68歳)が、「介護を通じて関係性が深まった」という父親の介護について振り返った。
両親の介護がほぼ同時期に始まった
――父親の介護が始まったのは2000年、荻野さんが44歳のときと伺いました。
荻野さん:父が悪性リンパ腫になって入院した年の春先に母が骨折していますから、だいたい2000年から両親が色々なことになってきて、2010年に父が、2015年に母が亡くなるまで介護を続けました。
父の悪性リンパ腫は横浜市の病院で切除しましたが、父は85歳と高齢で、そこでは化学療法ができませんでした。板橋区の老人医療センターに通うことになり、当時、私は慶應義塾大学の日吉キャンパスで教えていましたから、横浜市と板橋区を行ったり来たりする生活が始まりました。化学療法では大きな副作用がなく、無事に治ったと安心してたら、翌年に腸閉塞になってまた入院しました。
――父親はフランス系アメリカ人であまり日本語ができず、医療スタッフと意思疎通が取りにくかったそうですね。
荻野さん:そこが問題で。私はずっと日本の学校に通っていたので、バイリンガルじゃないんです。当時は電子辞書もありませんから、英和辞典と和英辞典を持って病院に通い、通訳のようなこともしていました。父が80代のときは比較的やりやすかったんですけど、お酒が原因で心不全になり、90歳で入院した時には、お酒のせいで一時的に脳がおかしくなっていまして。
夕食をスプーンで口に持っていくと、私の腕をガシッと掴んでひねり「開かない」って言うんです。つまり、私の腕のことを酒瓶だと思ってるんですね。翌日はだいぶ回復していて、人間だってことはわかってくれたんですけど、「外国人みたいな方ですね」って。「そりゃあ、あなたの娘だから」って言ったら、しまったっていう顔をしてました。
父を殺して自分も死のうと思った
荻野さん:10日もすると心臓は落ち着くんですけども、ほとんど歩くことができない状態でした。「前に1人、後ろに1人ついて支えれば歩けます」と病院側に言われたんですけど、うちは3人家族で、母親は腰椎滑り症で腰が折れているし、私には仕事があります。
――このまま退院すると、父親は寝たきりの生活になってしまう。
荻野さん:だから必死になって次の病院を探しました。なんとかリハビリ病院に転院することができたのですが、父親としては自分は元気だと思っちゃうんですね。年を取るっていろんな定義があると思いますけど、「元気じゃないことがわからない」というのが、年を取ることなんです。それで、自分は陰謀で閉じ込められているんだと妄想するようになりました。
リハビリ病院でも定期的に英語で癇癪を起こすので、その度に私に電話が来るわけです。本当に携帯を見るのが怖くて。仕事が終わって携帯を見ると、病院から連絡が入っている。
呼び出されては父に説明することを繰り返すのですが、どんなに話しても翌日には忘れている。賽の河原の石積みですよね。そんなある日、原稿の締め切り間際で必死になっている時に、病院の先生が直接電話をかけてきて「もう病院にお父さんを置いておけない」って言われたんです。
――15年の介護生活のなかで、この時期はかなりきつい状況だったそうですね。
荻野さん:そうですね。私は介護がきっかけにうつ病を発症していましたから、今は自分のうつ病と原稿で手いっぱいだと先生に伝えたのですが、「それよりお父さんのことでしょ」とバッサリ。頭が真っ白になりました。
夕方近くにその病院に行くんですけど、気づくと駅のキオスクで缶チューハイとカッターを買っていたんです。病院行くまでに缶チューハイは飲んじゃって。病室の父親に飛びかかりそうになるのを、数人の看護師さんに止められました。さすがに袋に入れていたカッターは取り出しませんでした。
その日は鎮静剤をもらって帰りました。それで、さすがに病院側でも私が限界だってことをわかってくれて、しばらく父親を置いてくれることになりました。そういう、父を殺して自分も死のうと思ったことが2回ほどあります。
――それでも、その病院にずっと入院していられるわけではない。
荻野さん:リハビリ病院には1月~5月まで入院し、本人の意思を尊重して自宅に戻ることになりました。介護保険を使いながら、隔日でデイサービスに行って、それがない日はヘルパーさんに来てもらいました。そうすると、母はヘルパー拒否の人だったので、家に人が入るのが嫌でたまらないんですね。だから母も弱ってくる。ヘルパーさんは日中だけなので、夜のトイレなどで父も消耗してくる。
両親がそういう状態なので、両親の介護で私も疲れきって、誰が先に倒れるかという状態になっていました。ですから、家にいることが必ずしもいいわけじゃないことを父にわかってもらったんです。
――結局、退院した2か月後の7月にはホームに。
荻野さん:腸閉塞の時がそうでしたけど、家族だけだと父の病状が悪化するまで見落とすわけですね。ところがホームだと、熱が出かかったところで病院に連れていってくれるから、そのために随分命が助かったと思っています。
なぜ父がホームに入りたがらなかったのかっていうと、娯楽が少ないから。だからホームに入るとき、父に「部屋をバーにしよう」と提案しました。ホームも許可してくれたんです。たくさんお酒を買ってダーツバーにして、常に何か楽しみがあるようにしました。
車椅子で外出する時も、外国人の多いバーに連れていってもらいました。ホームに元学生の女性にボランティアで来てもらいまして、英語ができるので父は喜んじゃって。「彼女は僕のフィアンセだ、新婚旅行はモナコに行く」なんて言いだしたから、母親が見舞いに来た日と重なると一触即発の雰囲気になりました(笑い)。