末期がんの母にコラムニストの息子がインタビュー。「人生でいちばん大切な締め切り」に間に合わせるために没頭して作った本に込めた想い|「147日目に死んだ母――がん告知から自宅で看取るまでの幸せな日々」Vol.3
コラムニストの石原壮一郎さんが、母・昭子さん(享年83)の「介護と看取り」を綴るシリーズ。病気知らずだった母が、突然腹痛を訴え緊急入院、大腸がんステージ4と宣告を受けた。「抗がん剤など積極的な治療はしない。家に帰りたい」と心を決めた母に、最期のときまで寄り添い見守り続けた家族の147日間の記録だ。新聞投稿が趣味だった母。自身の投稿記事を保管したたくさんのファイルを見た石原さんは、その投稿をまとめ、本にしようと思い立つ。40年にわたる投稿の記録は、母の人生の記録でもあった。
執筆/石原壮一郎
1963(昭和38)年三重県生まれ。コラムニスト。1993年『大人養成講座』(扶桑社)がデビュー作にしてベストセラーに。以来、「大人」をキーワードに理想のコミュニケーションのあり方を追求し続けている。『大人力検定』(文藝春秋)、『父親力検定』(岩崎書店)、『夫婦力検定』(実業之日本社)、『失礼な一言』(新潮新書)、『昭和人間のトリセツ』(日経プレミアシリーズ)、『大人のための“名言ケア”』(創元社)など著書は100冊以上。故郷を応援する「伊勢うどん大使」「松阪市ブランド大使」も務める。
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「そのとき」まで、自分は母に何ができるだろう
母に「投稿集を作りたい」と相談したのは、退院した日の夜だった。実家の本棚には、母が40年以上にわたって新聞などに投稿した切り抜きを収めたファイルが並んでいる。じっくり読んだことはなかったが、母の思いや人生の歩みが凝縮されているはずだ。
大腸がんのステージ4と診断された母は、残された日々を穏やかに過ごしたいと、主治医に「手術や抗がん剤治療は受けません」と言って家に戻ってきた。瘦せて体力が落ちたとはいえ、今は自分のことは自分でできる。この状態が一日でも長く続いてほしいと、母自身も家族も願っていた。
「そのとき」までに、自分は母に何ができるだろう。何をすれば母は喜ぶだろう。そう考えて思いついたのが、投稿集を作ることである。ただ、昔から自分のことは後回しにする癖が染みついていて、本当は嬉しい提案でも、反射的に「そんなんええわ(そんなのいいよ)」と断わる癖がある。「ここにある投稿、本にしようか」とストレートに言ったら、遠慮して「せんでええ、せんでええ」と拒否しそうだ。
本心ではなくても、しなくていいと言われたら、勝手に進めるわけにはいかなくなる。最初のアプローチを間違えると、母にとっても家族にとっても大きな意味を持つ本が作れなくなってしまう。それは絶対に避けたい。
頭をひねった末、こう切り出した。「お願いがあるんだけど、これまでの投稿を本にまとめさせてもらってもいいだろうか。自分にとっても弟にとっても自慢だから、そうさせてもらえると嬉しいんだけど」。母は唐突な提案に驚いたのか、少し間があったあと「ええんかいな。あんたも忙しいやろ」と控え目な言い方で承諾してくれた。
表紙を見た母はテレながら「こんな立派な本にしてもらえるの」
タイトルは、母の結婚前の愛称を取って『アッコちゃん――石原昭子投稿集』にしてみた。表紙の写真は、そう呼ばれていた中学生の頃の一枚だ。いちばん最初に表紙を作って、プリントアウトしたものを「これでどう?」と母に見せると、少しテレながら「うわあ、こんな立派な本にしてもらえるの」と嬉しそうに微笑んだ。
それが3月上旬のことである。作り始めた頃は「4月初めに印刷会社にデータを渡せれば、ゴールデンウィーク前には完成するかな」と考えていた。しかし、見通しが甘かった。大量の投稿と写真をスキャンしまくり、全体の構成を考えつつ、各ページに画像を配置してキャプションを付け……といった作業は、思った以上に手間と時間がかかった。
手間と時間がかかるのは承知の上だし、好き勝手に誌面を作っていく作業はぜんぜん苦ではない。久しぶりに「没頭する楽しさ」を味わった。しかし、いつまでも没頭してはいられない。最初の打ち合わせで「もう長くない母のために、こういう本を作りたい」と相談していた印刷会社の担当者からも、何度か進み具合を尋ねる電話をもらった。
「人生でいちばん大切な締め切り」に遅れるわけにはいかない
母は4月に入るころまでは元気で、私たちとクルマに乗って花見に行ったりもしていた。しかし、だんだん外に出たがらなくなっていく。元気そうな様子を見て「まだまだ大丈夫かな」と思ったのは、都合のいい希望的観測だった。子どもが感じる「まだまだ大丈夫かな」は、まったくアテにならない。
長いライター生活で原稿の締め切りはたくさん破ってきたが(堂々と言うことじゃないですね。すみません)、「人生でいちばん大切な締め切り」に遅れるわけにはいかない。焦りつつ作業を進めて、連休明けに印刷所にPDFデータを送信。その後もあれこれあったが、6月5日に完成した本が届いた。
母が最期まで口にしていた3つのポジティブな言葉
母はそのときはベッドから起きられなくなっていたが、どうにか間に合った。「できたよ」と言って本をわたすと、声を振り絞って「嬉しいなあ」「よかったー」「おおきんな」と言ってくれた。日に日に言葉が少なくなっていった母だが、最期まで口にしていたのはこの3つのポジティブな言葉である。本人がどこまで意識していたのかはわからないが、それは介護している私たちへの何よりの思いやりであり、何より大切な教えでもあった。
友人や知人から「親が生きているうちに、もっといろいろ聞いておけばよかった」というセリフをよく聞く。母の本を作ったおかげで、その思いは小さめに抑えられたかもしれない。おもに夕食後、本を作るためという「名目」で、時には切り抜きのファイルをめくりながら、時には古い写真を見ながら、母から昔の話をたくさん聞くことができた。
高校時代の写真を見ながら楽しい思い出を語ってくれたこともあれば、商売でひどい目に遭わされたことへの恨み節もあった。初めて聞くエピソードばかりだ。弟夫婦と二人の甥っ子の子ども時代についても、詳しく話してくれた。目の前でボイスレコーダーを回して、15年前に旅立った父親とのなれそめをじっくり聞いた日もある。
母の人生をたどると同時に、母の目を通して自分の人生を振り返る
のちに母の友人が教えてくれたが「息子にインタビューされてしもたわ。毒蝮さんに話を聞くときも、あんな感じなんかな」と、はにかみながら語っていたらしい。
昔の話や今の思いを差し向かいでじっくり聞けた時間は、何よりの宝物である。「自分はもう長くない」という状況で、息子に根掘り葉掘り聞かれた母は、どう思っていただろうか。それなりに楽しい経験だと思ってくれていただろうか。
ある時、母はポツリと「病気にならなかったら、こんな話もせんだかもしれやんな」と言って笑った。自分に起きていることを前向きにとらえている姿勢を見せてくれて、息子であるこちらも、母との別れが近いという現実を受け止める覚悟が固まった気がする。
『アッコちゃん』を作ったのは、母のためというよりむしろ自分のためだった。「早く作らなきゃ」というプレッシャーを感じつつ、好きな編集作業に没頭することで、かなり気がまぎれたのは間違いない。本人に話を聞きながら母の長い人生を一緒にたどることができたし、母の目を通して自分の人生を振り返ることもできた。
ただ、たっぷり聞いたはずなのに、今になると「もっと聞いておけばよかった」と思ってしまう。こればっかりはキリがない。「ぜんぜん聞けなかった」と後悔している人も、たくさん聞いたつもりの自分も、俯瞰して見ればたぶん似たり寄ったりである。
私自身は母とたくさん話せて楽しかったが、状況は人それぞれだ。自分や親のキャラクターも親子の関係性もさまざまである。いろんな話をしたいと思ってさえいれば、仮にできなくても、それで十分ではないだろうか。少なくとも親が子を恨むことはない。
つづく。
