息を引き取ったのは、孫・ひ孫とのビデオ通話を終えた5分後だった・・・母の見事な最期と在宅での看取りをコラムニストの息子が明かす|「147日目に死んだ母――がん告知から自宅で看取るまでの幸せな日々」vol.9
“大人力”を発信しているコラムニストの石原壮一郎さんが、末期がんの宣告を受けた母・昭子さんを在宅で見守り、看取るまでの日々を綴るシリーズ。「そのとき」が近づいてきた予感の中、全力でサポートしてきたご家族、石原さんは、どう向き合い、何をしたのだろうか。そして、命の灯が消えたその瞬間を万感の思いを込めて振り返る。
執筆/石原壮一郎
1963(昭和38)年三重県生まれ。コラムニスト。1993年『大人養成講座』(扶桑社)がデビュー作にしてベストセラーに。以来、「大人」をキーワードに理想のコミュニケーションのあり方を追求し続けている。『大人力検定』(文藝春秋)、『父親力検定』(岩崎書店)、『夫婦力検定』(実業之日本社)、『失礼な一言』(新潮新書)、『昭和人間のトリセツ』(日経プレミアシリーズ)、『大人のための“名言ケア”』(創元社)など著書は100冊以上。故郷を応援する「伊勢うどん大使」「松阪市ブランド大使」も務める。
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旅立ちのとき
「声をかけても目を覚ますことがなくなります」
「のどもとでゴロゴロという音がします」
「呼吸のリズムが不規則になります」
「手足が冷たくなります」
訪問診療のクリニックにもらった『End of Life Care~家で最期を迎える/大切な人を看取る』というタイトルのパンフレットには、一般的な「終末期の経緯」が書かれていた。上の4項目は「約48時間前~数時間間」に見られるという特徴だ。
「約1ヶ月前~数週間前」のところには「食事の量が少なくなる」「寝ている時間が長くなる」「尿や便の量が少なくなる」とあった。ベッドから起きられなくなった6月初めごろから、こうした特徴は当てはまっている。
そもそも元気ではないのだが、一段と元気がないように見える日は、上の4つの特徴に当てはまらないか、こっそりチェックしていた。「ゴロゴロという音はしていない」「呼吸もいつもどおりだ」「手足も冷たくはない」と確認して、ホッと胸をなでおろす。
母の手を握ったのは、いつ以来だろう。物心ついてからは初めてだ。夜中に目が覚めて布団から起き上がると、横のベッドで寝ている母もたいてい起きていた。小さな声で「水」とリクエストがある。吸い口で水を飲ませたあと、手を握りながら「今のうちに伝えておきたいこと」を思いつくままに話した。明日は伝えられるかどうかわからない。
父のときと同じ後悔をしたくない
父は15年前に亡くなったが、ひとつ大きな後悔がある。亡くなる数日前、病院に外泊許可をもらって自宅に帰ってきた日に、意を決して感謝の言葉を伝えようとした。しかし、もう話せなくなっていた父に「父ちゃんの……」と言いかけたところで、涙がこみあげてきて言葉に詰まってしまった。
かろうじて「……よかったよ」と口にしたが、あいだに入れるつもりだった「子どもに生まれて、ここで育ててもらって」の部分は伝わっただろうか。察してくれていたとしても、やっぱり言葉にして伝えておきたかった。
同じ後悔はしたくない。自分も年齢を重ねて、あの頃より図太くなっている。言葉にして伝えることの大切さも、十分に身に染みている。今回は「母ちゃんの子どもでよかったよ。育ててくれてありがとう」と、しっかり言葉にすることができた。
ほかにも「いつもおいしいご飯を食べさせてくれたなあ」「たくさんの人がお見舞いに来てくれて、石原昭子さんはたいしたもんや」など、感謝と尊敬の気持ちを何度も伝えた。かすれる声で返事をしてくれることもあれば、言葉の代わりに手を握り返してくれることもあった。
妻も、手を握りながら「私、昭子さんのお嫁さんになれてラッキーだった。幸せだったよ。壮一郎と結婚したことはさておき」と言っていた。最後は余計である。弟夫婦も孫たちも、それぞれの言葉で、母に感謝を伝えていた。家族はどうがんばっても、病気を治すことはできない。今できるのは、なるべく悔いなく幸せに旅立ってもらうことだけだ。
まだ話ができた頃、妻に向かって「私がウチにおりたいって言うたで、みんなに迷惑かけたやろか」と漏らしていたらしい。お門違いの心配だ。6月下旬のある夜、「家におりたいというてくれてありがとう。おかげでいろんな人と話せるし、世話できて嬉しいよ。病院に行っとったらつまらんだ」と話した。そのときは、少し微笑んでくれた気がする。
私もほかの家族も、母を喜ばせるために無理をしていたわけではない。ウソでも大げさでもなく、本当に思っていることを伝えていた。「ありがとう」と言えることが幸せだったし、みんなにそう思わせてくれた母はたいしたものである。
「あきこばあば」の声に口を動かそうとして
7月に入った。旅立つまであと2日である。呼吸が荒くなってきた。「いよいよ、そのときが来たかもしれない」と、誰もが感じていた。悲しさや寂しさはあったが、それよりも「よくがんばったね」と労いたい気持ちだった。
最後の日、午後に「昭子さんに会いたくなって」と寄ってくれたケアマネさんが、母に「ツクシ採り、楽しかったね」などと明るく話しかけたあと、私たちに「残された時間は少ないと思います」と教えてくれた。数日前から、弟夫婦も仕事を早めに切り上げて夕方には来てくれている。かわるがわる声をかけるが、ほとんど反応はない。
遠くに住む孫と小学一年生のひ孫に、学校が終わった頃を見計らって電話をかけた。ビデオ通話にして、お互いの顔が見えるようにする。「おばあちゃーん」と孫が呼びかけたら、目をわずかに動かした。ひ孫が母の弱々しい様子に戸惑いながら「あきこばあば」と言うと、口を動かそうとしている。たぶん、ひ孫の名前を呼ぼうとしたのだろう。
孫とひ孫は「また行くからね。待ってててねー」と言って電話を切った。私と妻、弟夫婦が「話せてよかったなあ」「元気そうやったな」と、母に声をかける。私以外の3人が食事の準備をするために台所に移動し、私は母の横に残った。しばらく様子を見ていると、呼吸が徐々に小さくなっていく。そして、母は動かなくなった。
「あっ、息が止まったみたい」
みんなが母の枕元に駆け寄る。十分に覚悟をしていたからか、涙はなかった。体に触れながら、口ぐちに「おつかれさまでした」「ありがとうございました」「ゆっくり休んでね」「父ちゃんによろしく」と声をかける。丁寧な緩和ケアのおかげで、最期まで苦しむことなく、まさに眠るように旅立っていった。
「近年まれにみるいいお看取りでした。ご本人もご家族も」
それにしても、見事なタイミングである。孫とひ孫とのビデオ通話を終えて、わずか5分後。息子夫婦も勢ぞろいしていた。「今しかない」と思ったのかもしれない。2025年7月2日午後5時30分、母は懸命に生きた83年4ヵ月の人生の幕を下ろした。華麗なフィニッシュだった。病気がわかってから147日間、母は何を思って過ごしていたのだろうか。
そこからは少しあわただしかった。クリニックなど関係各所に連絡すると、いつも来てくれていた看護師さんや介護士さんが5人も駆けつけてくれた。体を拭いたり着替えをしてくれたりする。通常の業務時間が終わった直後「自分も行きます」と言ってくれた人も何人かいたという。ありがたいことだ。つくづく絶妙のタイミングである。
やがて主治医の先生も到着。臨終を確認して死亡診断書を書いてくれた。ずっと親身に寄り添ってくれて、どんなに感謝してもしきれない。その先生が帰り際に「近年まれにみるいいお看取りでした。ご本人もご家族も」と言ってくれた。そう言ってもらえたのは、ひとえに主役である母のがんばりの賜物である。
その晩も、昨日までと同じように母のベッドの横に布団を敷いて寝た。朝方に目を覚まし、昨日までと同じように母に「おはよう」と声をかけ、壁の相田みつをさんの日めくりカレンダーをめくって、その日の言葉を読み上げた。母は顔に白い布をかけていたが、きっと聞いていたに違いない。ただ、そっと触れた手は、今朝は冷たかった。
つづく。
