シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<8>【連載 エッセイ】
長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。
桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」の連載が始まりました。
若いときには気づかない発見や感動…。シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を。
さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!
【前回までのあらすじ】
ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、セント・デイヴィッズに訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていたが、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発。
飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地であるセント・デイヴィッズに到着した。
宿に荷をほどき、早速、大聖堂を目指す…。第7回からは、紀行記をひと休み。大聖堂「セント・デイヴィッズ」についての解説を。
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IV 大聖堂「セント・デイヴィッズ」と炎の聖職者ジェラルド<2>
(2017/4/10 セント・デイヴィッズ)
●ジェラルド・オブ・ウェールズとは
ジェラルド・オブ・ウェールズ(Gerald of Wales,1146-1223)、ラテン語名ギラルダス・カンブレンシス(Giraldus Cambrensis)は、日本でいうと鎌倉幕府を開いた源頼朝と同じ頃に生きた人間である。
彼はウィリアム征服王の死の直後から、領土的野心に駆られてウェールズに侵入を開始したマーチャーと呼ばれるノルマン辺境候(ウェールズとの国境沿いに領地を持ったノルマン人領主)一族を出身母体に持つ。
ジェラルドが特徴的だったのは、彼は純粋なノルマン人ではなく、その体には4分の1、ウェールズ人の血が流れていたことである。
ジェラルドは多彩な側面を持つ多能な人で、ブレコンの副司教(archdeacon)という高位の聖職者だったのと同時に、12世紀当時類まれな高い教養を身に着けた知識人であり、国家の官吏でもあり、著述家だった。
彼の代表的な著作として有名なのが『ウェールズ紀行』(The Journey Through Wales)および『ウェールズ概略』(The Description of Wales)である。
両書は、ジェラルドがカンタベリー大司教ボードウィンと共に第3回十字軍の兵士を募るため回ったウェールズ各地の印象を記したもので、その記述の正確性には問題が多く、また両書はジェラルドの博学な歴史的知識披露の場に、あるいは自身のノルマン・マーチャー一族の武勇自慢の場にもなっている。
しかし、12世紀当時のウェールズを知る第一級の史料であることは疑いない。
こんな彼が、「セント・デイヴィッズ」に大司教の座を取り戻すべく、同教会の司教選挙に2度も立候補し、それを阻止しようとするカンタベリー大司教やイングランド国王と闘うのである。
結果的に彼は2度とも選挙に敗れ、「セント・デイヴィッズ」の司教にも、そして大司教にもなれなかったわけだが、特に2回目の司教選挙は6年にも及び、教会世界の頂点にいるローマ教皇をも巻き込んだスケールの大きい闘いとなった。
そして、この長い選挙戦の過程で、ジェラルドはそれまで抱いていた「自分はウェールズの征服者階級に属するノルマン人である」との認識を捨て、彼の体に4分の1流れるウェールズの血に、「自分はウェールズ人である」との新たなアイデンティティを見いだし、ウェールズのイングランドによる教会的支配からの解放と独立を勝ち取るため、炎のような情熱で闘ったのだった。
●教皇の好意と裁定
ジェラルドがローマに赴き、教皇インノケンティウス3世を前にした教皇庁での主張、すなわち、
『「バンゴール」、「セント・アサフ」、「セント・デイヴィッズ」、「スランダフ」のウェールズの4つの司教区はすべて、イングランドのカンタベリー大司教から一切の教会的支配を受けているが、ウェールズは昔から大司教を擁する先進地域であって、後発のカンタベリー大司教ふぜいに従う筋合いはまったくない』
とする弁舌に、インノケンティウス3世は理解を示した。
また、教皇庁の記録庫からはウェールズがカンタベリー大司教に従属することを示す記録の類が見つからず、むしろウェールズの教会がその昔、どこにも支配されない自治の形態にあったらしいことが推察されるなど、司教選の状況はジェラルド有利に傾いていった。
それでも最終的にジェラルドが敗れたのは、彼に好意を示していたはずの教皇インノケンティウス3世の裁定だった。
このとき、インノケンティウス3世はもう一つの選挙に巻き込まれていた。
それはドイツ国王選定をめぐる問題であり、教皇としては歴代ドイツ国王の施策を継承し教皇庁に脅威を与えようとするシュヴァーベン公フィリップより、穏健派のハインリヒ獅子公の息子オットーがドイツ国王に選ばれることを強く望んでいた。
実はこのオットー、イングランド国王ジョンの甥だったのである。
教皇としてはジョンと共同して何としてもオットーを王位につけたく、そのためにはジョンとの間によけいなさざ波を立てたくはない。
もしも、ジェラルドが「セント・デイヴィッズ」の司教になるのを認め、その上、彼の大司教への道を開いてしまったら、大陸の国際政治に強い影響力を持ち、しかもウェールズを何としてもイングランドの支配下にとどめようとするイングランド国王ジョンと、カンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターの大反感を買うのは火を見るより明らかだった。
ジェラルドを支持することは決して教皇庁の利益にならない…。
教皇インノケンティウス3世は一人の教会人としてはジェラルドに共感できた。しかし、現実の政治を考えたとき、ジェラルドを見放したのである。
ジェラルドが敗れた本当の理由は当時の国際情勢であり、パワーポリティクス(政治力学)の結果だったといえる。
●ウェールズの血に集まる苛め
それにしても、なぜ、ジェラルドはノルマン人であることをやめ、ウェールズ人としての自己認識を新たに獲得したのか。
その大きな理由の一つが苛めである。
ジェラルドの体に流れるウェールズの血はほんの4分の1にすぎなかったが、純粋な征服者ノルマン人の血を保っているイングランド国王と王宮内の国王の取り巻き連、そしてカンタベリー大司教にとって危険極まりないものに映るに十分だった。
なぜなら、彼のウェールズの血は、ウェールズの王族につながる高貴なものであり、それゆえイングランド側にはジェラルドに対して、ウェールズ各地の王族と通じて、反乱の機会を窺っているとの嫌疑が絶えずあった。
その博識ぶりを買って、ジェラルドを一時期王宮内の能吏として重用していたにもかかわらず、である。
このウェールズへの内通者という、ジェラルドにとってつらく不当な中傷は、ウェールズ側に反乱とか騒動があるたびにイングランド宮廷内でますます大きくなり、やがて大合唱となってジェラルドを苦しめていく。
そういうことが積もり積もって、彼はイングランド王宮の官吏をやめざるを得なくなる。
そして、ついに彼はノルマン人であるという自己認識を捨て、ウェールズ人であることを宣言し、ウェールズ側に立つのである。
●口の悪いジェラルド
もっとも、ジェラルドに苛めや中傷、非難が集まったのは彼にも大いに原因がある。
ジェラルド自身、口の悪さでは人後に落ちない性格だったからだ。作家でもある彼は、自分の著作で気に入らない人間を非難したりののしったりすることは日常茶飯事だった。
今日ではよくあることだが、当時は書物などで相手の実名をあげて悪口をいうのは前代未聞のことであり、唯一ジェラルドだけがこういうことをする。
わざわざ敵を作りまくっているようなものである。例えば『ウェールズ紀行』では、彼と同行した上司であるカンタベリー大司教のボードウィンのことを、「修道院長というよりは一介の平修道士、司教というよりは一人の修道院長、大司教というよりはただの司教」と、その能力不足をついて憚らない。
また同書において、一回目の司教選挙でジェラルドが敗れたライバルのノルマン人、ピーター・ド・レイアが司教についている「セント・デイヴィッズ」に関し、選挙戦で勝てなかった悔しさからか、「ここにはろくな人材がいない。ひどい状況である」と露骨にけなしている。
だから、ジェラルドの本でけなされた者は、当然ながらみな、ジェラルド非難の大合唱に加わったのであり、中でもジェラルド憎しで激しく敵対したのが、これもまたジェラルドの別の著作で実名をあげて罵倒されたカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターだった。
彼は2回目の「セント・デイヴィッズ」の司教選の過程で、ジェラルドの前に立ちふさがるのである。
●荒くれ坊主ジェラルド
ジェラルドはまた強面の聖職者であり、矛盾だらけの人間だった。
教会の10分の1税の取り立てで、彼は当時、南西ウェールズに住んでいたフランドル人と摩擦を引き起こす。
その結果、ジェラルドは一族のノルマン兵を率い武力で税を強制徴収するという、荒くれ坊主の一面があった。
のみならず、最後まで抵抗するフランドル人に、教会の伝家の宝刀ともいうべき破門を次々と行使していったのである。
その一方で、ジェラルドはカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが反乱を起こしたウェールズ人を片っ端から破門していったことに対して、その安易な破門の乱発を糾弾している。自分がフランドル人に行ったことは棚に上げて、である。
またジェラルドは、「セント・デイヴィッズ」の2度目の司教選の前まではノルマンの征服者階級に属する身としてウェールズ人を軽蔑していた。
けれども自身のウェールズ王族につながる高貴な血統となると話は別で、そのことをふだんから大いに吹聴してもいた。
ジェラルドの生涯には、こうした首尾一貫性のなさが常につきまとっていたのである。
ジェラルドとはこういう人間だった。
この多能というか異能の人物に、私はかつてロンドンのUCL史学科大学院に留学していたとき、巡り会ったのである。
その頃、私は留学の総仕上げのMA論文のテーマに、ブリテン島の征服者でフランス語を母語とするノルマン人が、自らをフランス人であると認識するのを止め、かつて自分たちが征服したこのブリテン島のネイティブ、すなわちアングロサクソン人や一部のウェールズ人と同じく、自分たちはもはやこの島の住人(ブリティッシュ)であるとの認識を、いつから抱いていったのか、ということを書こうと漠然と考えていた。
要するに征服者ノルマン人のブリテン島への同化について、ということである。
桜井俊彰(さくらいとしあき)
1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。