菊田あや子さん、母の遠距離介護と在宅での看取りを経て『終活ガイド』を取得
タレント・リポーター・菊田あや子さん(61才)は、母親を遠距離介護の後、最後の1か月を実家で介護し、見送った。「親子の濃密な時間から得た見送りから、“生ききる”ことと“終活”を学んだ」という菊田さん。現在は『終活ガイド』の資格を取得し、「終活協議会」の理事として終活のサポートを行っている。いつも前向きに生きる菊田さんにお話を伺った。
東京と山口の遠距離介護
山口県下関市の実家でひとり暮らしをする母・明子さんを、菊田あや子さんは、東京から遠距離介護で支え、最期は実家で看取った。
「2011年に認知症が進んで施設に入所してからは、毎月帰省し、母を実家に連れて帰っては2~3日過ごす、そんな生活を続けていました。初めて下の世話をしたときは衝撃でしたが、『いっぱい出たねえ』と一緒にお風呂に入り、頭からシャワーをかけると、『もー、あや子ちゃん!』と笑う母はかわいくもあり、楽しかったですよ」(菊田さん・以下同)
余命1か月と言われ在宅介護に
2019年9月に腎盂炎(じんうえん)になり、一時は危篤に陥るも回復したが、うまく嚥下(えんげ)できなくなる。そして11月末、「もう血管からの点滴は難しい。ほぼ体液と同じ水分を入れることしかできず、もって1か月」と宣告された。その2日後には実家に連れて帰り、在宅介護に踏み切った。
「病院で何もできないなら、家でできることをしてあげたいと思ったんです。帰宅した日に『あや子ちゃん、甘えていいの?』と言われ、とてもうれしかった。介護ベッドの横に自分の簡易ベッドを並べ、一緒に眠る。明るい声で話しかけ、とにかく笑顔を見せるようにしていました」
12月20日には「お腹がすいたね」と言われ、嚥下できなくなっていたが、訪問看護師と相談をして、なめらかなプリンを口に含ませてから吸引するようにした。
「母は、“おいしいねえ”と喜び、とてもいい笑顔でした。飲み込むことはできなくても、口いっぱいに甘いプリンを感じられたんだと思います。24日のクリスマスイブには、ケーキも味わうことができました」
命を燃やしきった母…94才の大往生
暮れに発熱したが、元日には孫、ひ孫まで集まって新年を祝うことができた。そして7日の午後、最後にパッと目を開け、2回大きく息を吐いた後、一度息を吸って亡くなった。
「これぞ大往生だ、立派だと、不思議な満足感があったんです。私のために最後まで生ききってくれたと…」
栄養を摂れなかったため、便が出たのは1か月で3回だけ。最後の1週間で体は枯れるようにげっそりとやせていき、命を燃やしきった様子には、感動があったという。
「葬儀、四十九日法要を終えたとき、ここまで母と一緒に10年かけて『終活』をしてきたようなものだと感じ、もっと終活について学びたいと思ったんです」
終活ガイドの資格を取得
この頃からコロナが広がり始め、仕事がほとんどなくなったのも、学ぶチャンスと考えた。『終活協議会』の終活ガイドの資格を取得。現在は検定の講師を務め、理事としても活動している。
「いままでも認知症に関する講演をしてきましたが、いまは残りの人生をどう生きるか、どう死んでいきたいかを考え、満足する生き方のための“終活”について考えるよう、伝えています」
親の看取りを考えたとき、「最期はどう死にたい?」と聞くより、「どう生きたい?」と聞く方が、終末期の過ごし方について答えやすいことも実感。
「“最期を自宅で”と望む場合は、長期の介護は無理でも、終末期の限られた期間を自宅で過ごせば、看取る側が“できることはやれた”との思いを得やすい。だから、事情が許せばぜひ実現してほしいです」
家族だけで看取るのは負担が大きいが、ケアマネジャーや訪問のドクターや看護師が、最期はどのような状態になるかをさりげなく伝え、覚悟を持たせてくれたのも、心強かったそうだ。
菊田明子さんヒストリー
・1926年 明子さん誕生。
・1948年 結婚。1949年に長男、1951年に次男、1959年に長女・あや子さんが誕生。
・2003年 夫と死別。
・2011年 認知症が進み、山口県内の施設に入所。
・2019年 11月末に終末期を宣告され自宅に。
・2020年 1月7日 死去(享年94)。
教えてくれた人
タレント・リポーター・菊田あや子さん
1959年、山口県生まれ。ワイドショーのリポーターなど全国各地の味覚を紹介する「日本一食べている女リポーター」として活躍。母の死後に認知症サポーター・終活ガイドの資格を取得し、『終活協議会』理事として、積極的に介護・認知症・終活の講演会を行っている。
取材・文/山下和恵
※女性セブン2021年7月15日号
●名物リポーター菊田あや子さん自宅で母を看取る|涙を超えた介護体験