自宅で看取るということ|菊田あや子さん・金子哲雄さんに学ぶ在宅介護
自宅で最期を迎えたい、見送りたい…そう願ってはいても、在宅介護というハードルは高い、と思い込んではいませんか。自宅や実家で在宅介護を行った、お2人にその経験を語っていただいた。なかなか行動に移せないでいる方にも参考になる言葉ばかりだ。
流通ジャーナリストの金子哲雄さんを自宅で看取った妻・稚子さん
「どう死を迎えるのかわからないから不安」
2012年、肺カルチノイドのために亡くなった流通ジャーナリストの金子哲雄さん(享年41)の妻で、終活ジャーナリストの金子稚子さん(52才)も、夫を自宅で看取れてよかったと話す。
「金子は告知を受けた後、最期まで仕事をして生きると決めました。だから、終末期も自宅で過ごしました。もちろん、最初は私も不安です。助けてもらっていた看護師さんに“もしものことがあったらどうしたらいいんでしょう”とたずねたことがありました。すると“もしもってどういうことだと思うんですか?”とあえて聞き返してくれて、その言葉で自分は何が気がかりなのかがはっきりしたんです。死を迎えることはわかっている。ただ、ひどく苦しむのか泣き叫ぶのか、どう死を迎えるのかわからないから不安なのだと」
「家族に医療の心得がなくても家で看取ることができる」
痛いとか苦しいとかにはならないし、絶対にそうはしないという医師たちを信じようと、金子さんは腹をくくった。
「入院とは、病院が管理しなくてはならない治療を受けている容体だということですが、そうした治療が一段落つけば、自宅に戻ることができます。最近では、訪問診療・訪問介護など支援する体制がかなり整ってきており、家族に医療の心得がなくても家で看取ることができるのです」(金子さん)
菊田あや子さん「毎日病院のベッドの横で座っている方が苦しかった」
タレント・リポーターの菊田あや子さんは、母の明子さんを在宅介護していた経験を持つ。菊田さんは、在宅介護をスタートさせた当時を振り返ると意外な思いがこみ上げてきた。明子さんが入院中は、毎日ベッドの横に座っているだけで、それがつらかったという。
「母は寝ている時間が長くなっていき、横にいても何もしてあげられない。私は泣いてばかりでした。看護師さんにちょっと外に出ていてくださいと言われて、その間におむつ替えや着替えをしてもらって。また部屋に戻ってじっと座ってるだけ。あの頃の方が苦しかった」(菊田さん・以下同)
菊田あや子さんの在宅介護 ある日の24時間
菊田さんが「それほど大変ではなかった」と話す在宅介護の一日。とはいえ、深夜も定期的に母親の様子を見ていた。
<7時>
起床。「ママおはよう」とあいさつして吸入器でたんを取る。
菊田さんはトーストとコーヒーで朝食。
訪問看護師の準備をする。
<9時>
訪問看護師が来る。体温、血圧、酸素濃度を測ってくれる。
おむつを替えてくれる。食べ物を摂っていないので、便が出たのは1か月で3回だけ。
レンジで加熱したタオルで顔や体を拭いたり着替えさせてくれる。
吸入器でたんを取ってくれる。
<10時>
訪問看護師が帰った後、洗濯、掃除、昼食など。
<15時>
訪問看護師が来て、午前と同様のケアを行う。
<16時>
訪問看護師が帰った後、テレビを見たり夕飯など。
<23時>
母・明子さんの隣のベッドで就寝。
<2時>
アラームをかけておいて起きる。
酸素マスクが外れていないか、熱が出ていないか、加湿器などをチェックする。
<4時>
2時と同じようにチェックする。
在宅介護のち、大往生
昨年暮れに37.6℃の熱を出しながらも、明子さんは年を越し、元日には孫、ひ孫までが集まった。だが、三が日が過ぎると、1月4日にまた発熱した。
「それからは苦しそうな顔になっていきました。1月7日も微熱が出て、暮れから泊まっている2番目の兄にお昼ご飯を食べさせたりしていて、さあ、ちょっと書き物の仕事でもしようかと思いながら母の元に戻ったら、様子がおかしい。体が冷たくなって、歯茎が茶色く血の気がひいて、ぐっとそげ落ちたようになっていました。急いで兄を呼ぶと、“胸は動いてるやないか”と。すると次の瞬間、母はパッと目を開いたんです。私はとっさに“ママ、何か言いたいの?”と思わず叫びました。母は、ふーっふーっと、2回大きく息を吐いた後、1度息を吸いました。それで終わりでした。体が嘘のように動かなくなり、体温がなくなっていくのがわかりました」
母の臨終を実感したとき、菊田さんは、不思議な満足感のようなものに包まれていたという。
「“大往生したな。おふくろ、大往生だ”兄がそう言ったんです。私も“そうだママ、大往生だ”って」
納得できた――満足したから泣いてはいない。そう言いながら、菊田さんの目からは涙がとめどなくあふれていた。
撮影/菅井淳子
※女性セブン2020年3月19日号