700人看取った看護師が教える親の老い・死の受け止め方「衰えるまで生きてくれたと感謝する」
介護の末に親が亡くなってしまったあと、その出来事がいつまでも重くのしかかることも少なくありません。看護師として700人以上を看取り、自らも一人っ子として両親を見送った宮子あずささんが、「介護のあと」について語ってくれました。
後悔するより、関わった人と“物語”を語りあう
看取ったあとの気持ちは、「行きつ戻りつ」です。
「もっとこうしてあげていれば、と後悔する必要はありません」
と皆さんに言っている私も、気持ちが落ちている時は、後悔に襲われたりしていました。
「もっと仕事を休めばよかった」
「もっとお金を使えばよかった」
後悔のタネは尽きることがありません。
もし、親が生きているなら、親孝行することができます。でも、いなくなったあとでは、もうどうしようもありません。どうしようもないのに、後悔ばかりしているのは辛すぎます。先に進むこともできなくなります。
「いい介護だった」と振り返るために
どうしても後悔してしまうこともあるけれど、関わった人たちが「いい介護だった」と振り返ることができるようなよい“物語”を、語りあえるのがいいと思います。
「最後に一度自宅に戻れた時は、仲のいいお友達とも会えて楽しそうだったね」
「どら焼きだけは、嬉しそうに食べていたわね」
「個室に入ったら、あの歌手の歌を何度も何度も聞いてたわ」
「このジュースが気に入って、あなたも飲みなさいって言ってくれたわね」
というように思い出して、それをみんなで共有してみてください。
ポイントは、「よい面」に注目することです。
たとえば同じ事実も、ネガティブに捉えると、こうなってしまいます。
「最後を自宅で過ごさせられなかった。病院で死なせてしまった…」
これでは、親も自分も報われません
「一度、自宅に戻れてよかった」
「最後まで介護をよくがんばった」
自分がらくになる考え方ができるように(実際にがんばったのですから)、“物語”を語りあうことが大切だと思います。
●衝突することの多い親子だったにしては、よかった、と
実際のところ、親の介護は「相手が親だから」という理由でしているのです。
相手が、夫であったり、妻であったりするならば、「この人を選んだのは自分だから、仕方がない」と考えることもできます。
しかし親子については、そうはいきません。親子は、選び取った関係ではない。どうにも気の合わないところがあったりもします。親子だからこそ、激しく衝突する部分もあります。
「それにしてはよくやった」
「そこそこ、よい関係で終われたな」
と、考えていいのではないでしょうか。
どう受け止めるかは、考え方を選ぶこと
介護と看護は違います。看護は病気に焦点をあててそれをよくしようとするのですが、介護は、そうではありません。介護は、よくならないことを認めた上で、最善の状態を維持しようとすることです。どんなに力を尽くしても、親は下り坂を歩いています。ゴールは、元気に回復させること、ではありません。
●「ぼろぼろになるまで生きてくれた」
私が病気と老いで衰えた母のことを「こんなに衰えてしまって」と嘆いたら、医師に「こんなに衰えるまで、長生きしてくれたんですよ」と言われて、はっとしたことがあります。
「こんなに衰えてしまって」と悲嘆にくれるのではなく、「衰えるまで生きてくれた」ことに感謝するという、今まで気が付かない発想だったのです。そういう受け取り方もあるのかと驚きました。
誰もが、親の老いていく姿を見て、こんなに年をとってと嘆き、「老いる」「衰える」というとネガティブに受け取ってしまいます。しかし、医師の「衰えるまで生きてくれた」という言葉に、老いというものを捉え直せてよかったと思いました。
●自分にしかできない、受け止め方を選ぶこと
親が死んだ、という事実に対して、「なんで死んでしまったんだろう」と嘆いたり、「もっとこうしてあげればよかったのに」と自分を責めたりするのではなく、現状を肯定することもありなのです。
親の死をどのように受け止めるかは、考え方を選ぶということになります。いろいろある考え方の中から、その人が選ぶことです。
それは、それぞれがたどってきた道の反映になります。自分からは、自分がたどってきた道による自分の見方しか見えない。そしてそれは、他人からは見えない。
だから、他人にどう思われようが、関係ありません。自分がよければ、その受け止め方でいいのだと思います。
今回の宮子あずさのひとこと
家で亡くなる人は、今後、否応なく増えていきます。
好むと好まざるとに関わらず、在宅で過ごして亡くなっていくかたが増えていく
国が予算をカットして、病院を減らそうとしてきたことは、新型コロナウイルスの流行にあたって、日本の医療体制の脆弱さでもあきらかになった通りです。さんざん言われている「医療崩壊」は、そうした動きの結果です。
また、政府が特別養護老人ホーム(特養)や介護老人福祉施設(老健)を増やす動きはありませんから、入所したい人が何十人、何百人も待機している状態は、改善されないでしょう。
そうした中で、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になろうとしています。好むと好まざるとに関わらず、時々入院してほぼ在宅で過ごして亡くなっていくかたが、大勢を占めていくでしょう。
親の介護、死の問題は直視せざると得ない状況に
親が子どもの世話になりたくないと思っても、子どもがうちは親の介護をしなくていいだろうと思っていても、避けて通れなくなっていきます。
親の介護、そして今までベールに包まれてきた死の問題を、直視せざるを得ない状況がやってこようとしています。そんな中で、少しでも役に立てればと思って、この連載でお話をさせていただいてきました。
介護は、親との関係をどう終わらせていくかを考えること
介護は、親との関係を収束に向かわせ、決着をつけていくことです。強かった親が、弱くなっていく。人生から消えていくことを受け入れていく過程です。親子の関係をどう終わらせていくかを、子どもとして考えることです。
まだまだ、落ち着かない日々が続きますが、どうぞ気分転換もしながら、お元気でお過ごしいただければと思います。
教えてくれた人
宮子あずさ(みやこあずさ)さん/
1963年東京生まれ。東京育ち。看護師/随筆家。明治大学文学部中退。東京厚生年金看護専門学校卒業。東京女子医科大学大学院博士後期課程修了。1987年から2009年まで東京厚生年金病院に勤務。内科、精神科、緩和ケアなどを担当し、700人以上を看取る。看護師長を7年間つとめた。現在は、精神科病院で訪問看護に従事しながら、大学非常勤講師、執筆活動をおこなっている。『老親の看かた、私の老い方』(集英社文庫)など、著書多数。母は評論家・作家の吉武輝子。高校の同級生だった夫と、猫と暮らしている。
構成・文/新田由紀子