名物リポーター菊田あや子さん自宅で母を看取る|涙を超えた介護体験
厚生労働省の人口動態調査(2018年)によると、自宅で最期を迎えた人の割合はわずか13.7%。そんななか、生活基盤のある東京を離れ、実家で母を看取った女性がいる。タレントでリポーターの菊田あや子さん(60才)だ。
大切な家族が余命わずかと知ったとき、私たちは日常にどう折り合いをつければよいのか――。
母の介護で初めて仕事をキャンセル
朝起きて、隣に寝ている母に「おはよう。いいお天気だね」と声をかける。ベッドの横で洗濯物をたたみながら、「ママのこと大好き、大好き」と繰り返す。母はほとんど話せないし、ただ上を向いて寝ているだけ。それでも、そこには確実に温かいものが流れていた――。
菊田あや子さんといえばテレビのワイドショー。各地の味覚を勢いよく頬張っては独特の張りのある声をあげる。人呼んで、「日本一食べている女性リポーター」。放送関係の人材を多く輩出している日本大学芸術学部に入学するために、山口県下関市から上京したのは42年前。底抜けに明るい笑顔がお茶の間で愛されて、長年活躍してきた。受けた仕事を断ったことはない。そんな彼女が昨年末、初めて番組出演をキャンセルした。母のそばで最後の時間を過ごしたかったからだ。
認知症の進んだ母を施設へ。「私は“姥捨(うばす)て”をした」
菊田さんの母・明子さんは、2003年に夫を看取った後、実家でデイサービスに通いながら、ひとり暮らしをしていた。
ところが2011年、86才のときに、かかりつけの医師から、認知症が進み、ひとりで生活するのはもう無理だと言われる。
「私は東京で仕事があり、2人の兄たちも別に暮らしていたので、施設に入居してもらうしかありませんでした。兄と私とでいくつか見て回り、その1つに海が見えるところがありました。母も見学に行くと“ああ、ここはいいわね”と言って、そちらにお世話になることになりました」(菊田さん・以下同)
ところが、菊田さんが入居の荷造りを始めてからの2日間、明子さんがベッドにもぐり込んで動かない。
「もう、この家には帰ってこられないと観念したのでしょう。施設へは、決して母が自分から行きたいと言ったわけじゃない。姥捨てをするようだと思ったあの気持ちは忘れられません」
初めておむつを取り替える
施設に入居してみると、やさしいスタッフがしっかり世話をしてくれて、家族は胸をなで下ろした。それでも、菊田さんは、母がどうしてもかわいそうに思えて仕方がなかった。毎月下関に戻り、明子さんをタクシーで家に連れて帰っては2、3日を一緒に過ごす。そんな生活を繰り返した。認知症が進んで、ご飯を食べたことを忘れるようになった母。しもの世話も随分した。
「朝、トイレに連れて行って、手すりにつかまってもらって紙おむつを取り替えるんです。初めて、茶色いうんちがおむつの中に広がっているのを見たときは衝撃でした。私は子供のおむつを替えた経験もないので」
あるとき、「あや子ちゃん、汚いことをさせてごめんね」と明子さんに言われ、ドキリとする。
「私が“太ももにもついちゃった”とか、わあわあ言ったのがいかんかったなと、反省しました。それからは“ほーらしっかり手すり持っといてよ。そうせんとおむつが上げられんよお”って楽しくするように心がけました」
紙おむつを取り替えた後、温水洗浄便座でお尻を洗う。後ろの方まで汚れていると、“いっぱい出たねえ。ママ、このままお風呂に入ろうか”と連れて行った。
「夏は、一気に頭まで洗っちゃえとか。ちょっとふざけてダーッと頭からシャワーをかけたりすると“もー、あや子ちゃんー”と笑ってて。そんなやりとりも楽しかったんです」
危篤を乗り越えて在宅介護へ
昨年の9月、明子さんは、腎盂炎(じんうえん)にかかる。尿道から雑菌が入り込む病気だ。高熱を出して、一時は危篤に陥った。酸素マスクをつけ、食べることも飲むこともできずに点滴を続けて、1か月以上がたった。このことがきっかけで、明子さんは嚥下(えんげ)のリハビリを受けても、食べ物を飲み下すことができなくなってしまった。
菊田さんが下関に戻るたびに、明子さんはどんどんやせていく。血管が細く硬くなって、腕には点滴の針を刺せない。次は手の甲、だめなら足の甲、くるぶし、むこうずね、最後はそけい部と、針痕の紫色の内出血はどんどん移動していった。
2019年11月の末、講演の仕事が続いた後でやっと病院に駆けつけると、中学時代からの友人でもあった看護師長の水野佳代子さんが待っていた。
「“キク(菊田さんの愛称)、もう血管からの点滴は無理だわ”と言うんです。私は“もうなんにもできんわけ? 見殺しにするしかないん?”と泣きながら聞きました」
在宅介護で一緒にいられるだけで嬉しかった
点滴は無理。できるのは皮下注射といって、ほぼ体液と同じ水分を24時間で500mlずつ入れることだけというのが、病院の説明だった。もって1か月ということだった。
「翌日、水野さんから、“このあと地元に戻って来ることはできるのか”と聞かれました。“なんとか調整してみる”と答えると、在宅介護を提案されました。ならばと思い切って2日後には母を家に連れて帰りました」
在宅介護と聞くと、二の足を踏む人が多い。だが菊田さんの場合、医療的に気を配ることは、血中酸素の濃度と、皮下注射がちゃんと体に入っているのかを確認することくらい。だから踏み切れたというのもあった。介護が大変かどうかより、母親のベッドの横に自分用の簡易ベッドを並べて一緒に眠ることがうれしかった。
「朝起きたら“ママおはよう。今日も寒いみたいだよ”と声をかけて、訪問看護師さんが来る準備をして、“お台所に行ってくるからね”と、また声をかけて。母は返事をすることもあれば、黙って上を見ているだけのときもありました。それでも、もう治療はできないというなら、一緒に家にいられるだけでよかったんです」
※女性セブン2020年3月19日号
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