在宅介護を終えたあとの人生|菊田あや子さんが看取りから得たもの
タレントでレポーターの菊田あや子さんは、地元の山口県・下関で母親を介護していた。8年の介護生活から学んだこととはどんなことなのだろうか。独占インタビューで菊田さんが語ってくれた。
仕事を休んで得られたこれからの人生観
言うまでもなく、在宅介護は家族や仕事の事情があれば難しいことも多い。現役世代にとっては、数日ならともかく、長期戦はなかなかかなわないだろう。
「私も会社員だったら、仕事を休めなかったかもしれない。反対に、会社員ではないフリーランスだから、仕事を断るのに不安もありました。それでもお金や仕事はあとでなんとでもなる、だめだったら別の仕事を探すことだってできる。そう考えて初めて仕事をキャンセルさせてもらいました。自分の人生にとって、納得のいく(最後に在宅介護をした)1か月でした」
→自宅で看取るということ|菊田あや子さん・金子哲雄さんに学ぶ在宅介護
最愛の母親との最期の1か月
「キク(菊田さんの愛称)の大声がお母さんを1か月生かしたのだと思います」
と、菊田さんの中学時代からの友人で、母親が入院していた病院で看護師長を務めていた、下関安岡病院地域連携推進部入退院支援室看護師長の水野佳代子さん(60才)が当時を振り返ってくれた。
在宅で酸素吸入も皮下注射もできる
点滴ができなくなったとき、キクに「じゃあ見殺しにするん?」と言われ、
「いや、口の中もおしももきれいにして感染せんようにして、お母さんの好きな過ごし方をさせてあげることができるんよ」と答えました。
それは自宅でもできるんです。酸素吸入も皮下注射も病院と同じようにできます。
「キクはどうしたいん?」と聞いたら「ママと一緒におりたい」と答えた彼女が、自宅で看取ってあげることができたのはとてもよかったと思います。
私は25年間、高齢者の多い慢性期病院に勤務していて、家に帰りたいと言うかたはいますが、家族の諸事情で退院できず、実際に看取りの状態で帰れたケースはわずかです。
キクは、中学生の頃から人をひきつける明るい子で、教室に声が響いていました。介護の間もその大きな声で「ママ、がんばって!」と語りかけていたのが力になり、お母さんは信じられない回復をして1か月間、生き延びたのだと思います。キクは最後までお母さんが大好きな気持ちが強かったし、お母さんもキクのことが大好きでしたから。
キクが泣きはらした目をしていたのは(在宅介護を始めた11月末から)12月初めまで。それなりに心づもりもできていったのだと思います。亡くなったと聞いて駆けつけたときは、キクがピンクの口紅をていねいに塗ってあげて「ね、きれいやろう?」といつもの笑顔でした。
母親からの愛と感謝の気持ち
菊田さんは母親との思い出を今も大切にしているという。
「私はぽっちゃりで美人でもない。でもこの仕事が好きで、還暦になっても人前でしゃべらせてもらっています。その強さみたいなものは、幼い頃、いつも母に“あや子ちゃんはできるよ”と言ってもらえたからです」
若い頃は盲学校の教員だった母からは、一度も叱られたことがない。いまでいう自己肯定感を高めてもらうような、愛にあふれる言葉ばかりを、生涯、浴びせてもらった。
「そんなママとのお別れだったからこそ、何をおいてでも下関に戻ったんです。母の死に立ち会って、それまでは人の死を本当の意味で実感することができていなかったことにも気づけました。どんどんやせて骸骨(がいこつ)みたいになっていって、腰骨が立って。まだ太もものお肉がちょっとあるかと思っていたら、2日ほどでなくなっていく。しものことも含めて、“人間が終わっていく様”を毎日しっかり見せてもらえました。94年生きた人生を、こうやって閉じていくのだと母に見せてもらえたことで、自分がこれからを大切に充分に生きたいと思うようになりました」
それまでも認知症に関する講演を行ってきたが、母を看取った後、以前とはまた違った話をするようにもなった。残りの人生をどう生きるか、どう死んでいきたいかを考えましょうと語りかけている。
東京に戻った菊田さんは、再び母と2人暮らしになった。毎朝「ママ、行ってきます」と小さな仏壇にお線香をあげて仕事に向かう。そして今日も、母にほめ続けてもらった元気な笑顔でカメラの前に立つ。
→名物リポーター菊田あや子さん自宅で母を看取る|涙を超えた介護体験
※女性セブン2020年3月19日号
https://josei7.com/