“鬼ババア”の密葬、夫の魂の閉店…コロナ禍の涙ほろりストーリー
報道番組『news every.』(日本テレビ系)のキャスター藤井貴彦さんが日々発する言葉が注目されています。「冷たい視線はいますぐ温かい支援に変えなければなりません」「たくさんのものをがまんしてあきらめる日々を過ごしていますが、他人を思いやる心まで失わないでいること。これが大切です」──コロナ離婚やDVのニュースが次々と報道されるコロナ禍のいま、私たちは思いやりの心を枯渇させているのかも…。今回は、そんな中で見つけた心温まる実話を紹介。大切な人を思う気持ちを思い出してみませんか?
エピソード1 鬼ババアの密葬
「お前、あの“鬼ババア”の娘だろ。ムリだわ」──
高校時代、勇気を振り絞って告白した相手にこう言われた私は、このときほど母を恨んだことはありませんでした。
鬼ババアとは、私の母のこと。40才で他界した父に代わり、女手一つで祖父の代から続く文房具店を経営してきた母は、近所でも有名な“怖いおばちゃん”でした。
客だろうと、小さな子供だろうと、あいさつができないと注意し、ゴミを落としたら持ち帰らせるなど、悪いことは悪いと見逃さずに叱る人でした。
あるとき、地元の有力者の息子が万引をしました。両親が謝っても母は聞かず、3回目だったこともあって、警察と学校に通報したのです。その子は、推薦で決まっていた高校の入学が取り消しになり、転校しました。
そんな母を逆恨みした人たちから、私は小学生の頃からいじめられてきました。私がいじめられていることやその理由を話し、近所の子を叱るのはやめてくれないかと頼んでも、母は「正しいことをしているのに、なぜやめなければならないの」と、聞いてくれませんでした。母は、私にとっても鬼ババアだったんです。
母と決別するため、私は奨学金で進学し上京。そのまま東京で就職、結婚をし、母とは20年以上音信不通でした。
ところが今年4月、母が倒れたと母の友人から連絡がきました。慌てて実家へ向かったのですが、入院先の病院ですでに亡くなっていました。心筋梗塞でした。自宅にひとりでいるときに倒れ、そのままだったそうです。
三密を避けるため、葬儀も密葬で済ませました。とはいえ、嫌われ者だった母のこと、こんなときじゃなくても誰も来ないだろうと思っていたんです。ところが、お骨を持って家に戻ると、マスクの男性が、
「ご焼香させてください」
と訪ねて来てくれたのです。門の外を見ると、前の人とのスペースを空けているせいもありますが、多くの人が長蛇の列を作っていました。
最初に来てくれたその男性は、意外にも万引で推薦が取り消しになった男の子でした。母とは数年前、地域活動で再会したそうです。
「最初は憎くて許せなかった。でも、誰にでも平等に、悪い行いは叱り、正しい行いはほめる、なんて一本筋の通ったことは、なかなかできることじゃないって気づいたんです。あなたのお母さんはカッコよかった」
彼の話を聞いて、私は頰を打たれたような衝撃を受けました。私は母の何を見ていたのか…。これからは、母の娘であることを誇りに、私も筋の通った生き方を志そうと思いました。(43才・主婦)
エピソード2 天国の夫からのエール
医師だった夫が交通事故で他界して20年、当時10才だった息子もいまでは呼吸器内科の勤務医です。
「ぼくが医師になったのは、こういうときのためだ」
と志願し、4月からコロナ感染者が入院している病院で勤務することに。いま、世の中が大変なのはわかっています。でも母親としては、
「何もあなたが行かなくてもいいじゃない?」
と言いたい…。何度ものど元までこのせりふが出かかりましたが、がまんしました。
コロナ感染者の病棟勤務は、感染のリスクが高まるだけでなく、仕事量がハンパじゃありません。朝に出て行って明け方に帰り、昼頃また出勤する。患者が治ればまだいいのですが、目の前であっという間に亡くなっていく現実に、悲しみと無力感がのしかかってくる。そこに追い討ちをかけるように、世間から「コロナ患者と接触している」と白い目で見られます。息子はどんどん憔悴していきました。
何か私にできることがあればと思っても、「ぼくに近寄らない方がいい」と、自宅でも自主隔離。私にできることといえば、毎晩亡き夫の仏壇の前で、息子を守ってくれるよう祈るばかりでした。
コロナ病棟で勤務を始めて3週間後、いつもよりも元気な様子で帰宅した息子が、
「さっき、父さんがうちの病院に来たよ」
と言うのです。仮眠中に頭をなでられたと…。普通だったらばかげた話だろうと思いますが、私は涙が止まりませんでした。だってその前夜、私の枕元にも夫が笑顔で現れたのです。亡き夫が守ってくれるから息子はきっと大丈夫だ。コロナの脅威は続きますが、私はそう確信しています。(60才・会社員)
エピソード3 夫の魂の閉店
夫は大手企業を脱サラし、29才で私の祖父が開いた大衆食堂を継ぎました。義父は大反対しましたが、 「おれはこの店の味が好きだし、ファンのお客さんを悲しませたくない」
と、覚悟の決断をしてくれたのです。
酷暑の夏も、極寒の冬も朝4時に仕入れに行き、仕込みをし、ランチから深夜23時まで営業。定休日も掃除やメニューの開発など1日も休まず、30年間店を続けてきました。
「お客さんが目の前で喜んでくれる。こんなうれしい仕事はほかにないよね」
というのが夫の口癖でした。
ところが、このコロナ禍です。3月以降は、19時までに営業時間を短縮して続けていました。それでも、警察に通報されたり、クレームの電話が鳴りやまなくなりました。店のシャッターには「ヤメロ」などの落書きまで…。4月半ばには、
「コロナ発生源! 殺人店はここだ」
という張り紙をされ、さすがの夫も衝撃を受けたようです。私も限界でした。すでに約2か月、お客さまはほぼゼロ。
「もう、この店の味は求められていないのか…」
苦渋の決断で、店をたたむことにしました。夫は従業員を帰し、火を落とした後の厨房で嗚咽を漏らしていました。私はその後ろ姿を見守ることしかできませんでした…。
その数日後、積み重なった疲労やストレスもあったのでしょう。夫はクモ膜下出血で倒れ、突然、帰らぬ人となりました。あっという間の出来事でした。この話をしているいまでも信じられません。
密葬が終わった後、娘が、
「これをお母さんに渡しておくね。お父さん、コロナが落ち着いたらお母さんと行くんだって言ってたよ」
と、渡してくれたのは海外旅行券でした。
「私と一緒にまだまだ生きる気だったんだ」
夫は閉店しても未来を見ていた。私もくじけてはいられない。前を向いて生きようと思いました(59才・無職)。
※女性セブン2020年6月11日号
https://josei7.com/
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