84才、一人暮らし。ああ、快適なり<第2回 老いはするが老人にはならぬ>
体調が良く、天気に恵まれた日曜日に、私はしばしば競馬場を訪れる。少年時代に父親に連れられて競馬の魅力にとりつかれ、戦後70年以上も、ダービーの日には必ず東京競馬場へ足を運んでいる。
馬券売り場が混み合っていると、窓口でモタつく。締め切り直前になると、後ろから罵声を浴びせられる。
「オイ、爺(じじ)い、何やってんだ。早くしろ!」
容赦ない声が飛んでくる。ますます焦り、失敗を繰り返す始末だ。最近の窓口は、ほとんどが自販機だから、口頭で修正なんぞは受け付けてくれない。
私は決心して、
「静かにしてください。気が散ります。それはあなたのためです」
と、毅然たる態度で立ち向かった。いわば威厳を込めた私の姿勢によって、その怒れる中年の男は、すっかりたじろいでしまった。
ボルサリーノを目深にかぶり、三つ揃いのスーツにアスコットタイを結んだ私の身形にも気圧された様子だった。
投票を終えた私は、何事もなかったように、背筋を伸ばして立ち去った。
「すみません、お騒がせしました」
スレ違い様に男は私に詫びたのだった。年寄りの後ろに並ぶなよ、と口から出かかったが、そこは自重した。
遊びには常に余裕と悦楽が必要である。溺れることは慎まなくてはならない。ヒートアップすることは、運を手放すばかりか、身を滅ぼしかねない。ことにギャンブルに興じる人にとって、冷静さだけは失ってはならない。
尊厳のない老人は生きる価値を自ら棄てている
老人を労(いた)わらない若者は、たいてい未熟である。しかも、それに全く気が付かない。不幸の始まりがそこにある。逆境に弱い。それでいて、自分だけがツキがないと思い込む。
こうした人生を送って老化してしまった人は、えてして労わりを求める。つまり根から身勝手なのだ。
混み合った電車に乗り込んで、優先席に辿り着こうとする老人は、やはりいやしい。そのいやしさに気づかないとしたら、ゴミ同然である。
嫌な老人の典型は、何かにつけ助けを求める。いわゆる憐みを乞う。施しを受けることを当然と思っている。その気持ちが間違っていることに一向に気づかない。尊厳のない老人は、生きる価値を自ら棄てているとしか言いようもない。
何度も言うようで恐縮だが、人は誰でも必ず老いる。自覚して老いるか、漠然と老いるかでは、雲沼の違いがある。
自分自身の現実を正しく受け入れることが、どれほど大事かを考えた時、私はなるべく人の世話になるまいと思ったのだ。自分のことは自分でやる。迷惑をかけないつもりでも、いつもどこかで、誰かに迷惑をかけている。
それを実施するために一人暮らしを選んだとも言える。次回は、「自由」について考察してみたい。
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。