コロナ延期のドラマ半沢直樹を待ちながら【月曜だけど日曜劇場研究】第1回
自宅で過ごす時間が増えた今、介護の息抜きに…介護ポストセブンではドラマレビューを開始する。
4月からの新クールでのドラマの見所をお伝えする予定だったところ、新型コロナの影響により、7年ぶりの続編に期待がかかっていた「日曜劇場」シリーズ枠のドラマ『半沢直樹』が放送延期に…。そこで、ドラマを愛し、とりわけ「日曜劇場」シリーズを熱く見守りつづけるライター・近藤正高さんが、『半沢直樹』を待ちながら「日曜劇場」をじっくり紐解いていく。大ヒットドラマの陰にあった人間くさいドラマの数々。この機会に「日曜劇場」を倍にお楽しみいただきたい。「倍返しだ!」
日曜夜9時台のドラマ日曜劇場の歴史
TBS系ではこの4月から、ドラマ『半沢直樹』の7年ぶりの新シリーズが放送予定だった。それが、ドラマ好きのみなさんにはすでにご存じのとおり、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて撮影が一時中断となったため、放送開始が延期されてしまった。また、新シリーズを前に2週に分けて放送予定だった前シリーズの総集編も、新シリーズとあわせ放送が遅れるそうだ。
じつは私も『半沢直樹』の総集編と新シリーズの放送にあわせ、レビューを毎週お届けするつもりだったのだが、こういう事態となっては残念ながら延期せざるをえない。その代わり、『半沢直樹』が始まるまでのあいだ、その放送枠であるTBS系の日曜よる9時台の「日曜劇場」について、これまでの歴史を中心にちょっと振り返ってみようと思い立った。
64年の歴史を誇るテレビドラマ枠「日曜劇場」
「日曜劇場」の歴史と一口に言っても、思いのほか古い。現在のTBSテレビは、1955年にラジオ東京テレビ(RTテレビ)として開局したが、日曜劇場は早くも翌1956年12月に始まっている。当初の正式な名前は、スポンサーである電機メーカーの名を冠して「東芝日曜劇場」だった(2002年9月まで)。ちなみにNHKの連続テレビ小説が始まったのは1961年、大河ドラマは1963年なので、現時点で64年続いている日曜劇場はそれら以上に長い歴史を誇る。おそらく日本最古のテレビドラマ枠と言ってよいだろう。
日本でテレビ本放送が始まったころには、編集のしやすいVTRはまだ普及していなかった。そのため、初期のドラマはほとんどが生放送。一部にはフィルムで撮影した場面を挿入するとしても、表現にはなお制約が多かったのだ。そのなかにあって、TBSテレビ=当時のRTテレビが、報道とともにドラマを局の柱に据え、「日曜劇場」という枠を設けたのはかなりの冒険だったといえる。この方針を定め、「日曜劇場」を創出したのは、のちに同局の社長となる今道潤三さんだとされる。
1960年前後のこのころ、庶民の最大の娯楽は何といっても映画だった。一方、テレビは徐々に受像器が各家庭に入り始めていたとはいえ、技術も内容も未熟で「電気紙芝居」と揶揄されるほど。そんなテレビのドラマに映画スターがおいそれと出演してくれるはずがない。
また、当時の映画業界では大手5社が互いの利益を守るため、俳優たちを専属として囲い込み、他社作品への出演を厳しく制限していた。今道はそんな映画業界に対抗して、映画界のほか新劇・歌舞伎・新派などの俳優に呼びかけて専属契約を結ぶなど、ドラマ制作の基盤を固めていく。スタッフもこれに応じて、テーマや表現手法ともに意欲的な作品を次々と企画し、「日曜劇場」はその受け皿となっていった。そんな同枠に対し、1960年には「開局以来、一貫して正統演劇を放送し、テレビ番組の質的向上を目指す製作関係者及びスポンサー」が評価され、菊池寛賞も贈られてる。
ここで注意したいのは、かつての日曜劇場は、現在のような連続ドラマの枠ではなく、単発ドラマの枠だったということ。毎週違った作品を放送するがゆえ、スタッフたちは自然と競い合うようになる。「日曜劇場」から新進気鋭の演出家、脚本家が数多く育っていったのは、やはり単発ドラマ枠だったからこそだろう。
橋田壽賀子と石井ふく子が初めて組んだ日曜劇場
脚本家の橋田壽賀子さんが、プロデューサーの石井ふく子さんと初めて組んだのも「日曜劇場」だった(1964年放送の『袋を渡せば』)。橋田さんにとって、石井さんは1歳下で、のちには二人三脚で『渡る世間は鬼ばかり』など多くのドラマを生み出すわけだが、出会った当初はプロデューサーである彼女とはまるで格が違ったという。
脚本をある程度書いて渡すたびに、石井さんからセリフについて
《あなたね、こんな言葉、普通に使う!? ホームドラマっていうのは、普通に喋るのよ。あなたはカッコいいと思って書いたんだろうけど、これぇ、ダサすぎるわよ》
などとがんがんダメ出しされたそうだ(橋田壽賀子『おしんの心』小学館)。
そんなふうにホームドラマのいろはを徹底的にたたき込まれながら、橋田さんはヒットメーカーへと成長していったのだった。
1950年代終わりになると、全国で民間放送局の誕生があいつぐ。これにともない東京の民放キー局は全国ネットワークを形成していく。TBSもそのために地方系列局とのつながりの強化をめざした。「日曜劇場」でも、系列局が分担してドラマをつくることになる。
たとえば、脚本家の倉本聰さんが「日曜劇場」で初めて作品を書いたのは、名古屋の中部日本放送(CBC)制作の『おりょう』(1971年)という時代劇だった。倉本さんはその後、東京から北海道に活動拠点を移すが、それと前後して、北海道放送(HBC)の守分寿男というディレクターと組んで「日曜劇場」でたびたび作品を手がけている。
なかでも大滝秀治さんと八千草薫さんの主演による『うちのホンカン』は1975年に第1作が放送されると、人気シリーズとなった。
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単発ドラマ枠時代の「日曜劇場」ではこのほか、石井ふく子さんが直木賞作家の平岩弓枝さんと組んだ池内淳子さん主演の『女と味噌汁』シリーズも人気を博し、1965年から1980年まで38作がつくられている。
放送作家から小説家になって直木賞を受賞するケースは、井上ひさしさんや向田邦子さんなど少なくないが、平岩さんは逆に直木賞受賞後、テレビドラマの脚本を手がけるようになったという点で珍しい存在といえる。
ちなみに橋田壽賀子さんはもともと映画会社の松竹で脚本家としてスタートしたが、現在、大河ドラマ『麒麟がくる』を手がける池端俊策さんも、今村昌平監督の映画で脚本を手がけつつ、テレビでも活動を本格化させている。日曜劇場でもHBC制作の『馬・逃げた!』(1979年)を皮切りにたびたび作品を書き、テレビドラマの作家として地歩を固めていった。
日曜劇場初の連ドラ『丘の上の向日葵』
このように、新進気鋭の脚本家が世に出ていくきっかけを与え、地方局のあいだで競い合うように意欲作がつくられた「日曜劇場」からは、芸術祭などで受賞する作品も多数生まれた。「日曜劇場」が始まって37年が経った1993年4月、連続ドラマの枠へと転換する。私が考えるに、この大きな転換の背景には、次のような事情があったのではないだろうか。
1993年といえば、バブル経済の崩壊直後。テレビ業界にも、広告収入の減少などじわじわとその影響がおよんでいる。「日曜劇場」もその例外ではなかっただろう。毎週違ったドラマを放送するという従来どおりの体制では、系列局で持ち回りで制作するにせよ、予算面で負担が大きくなっていたはず。また、人気シリーズが放送されたかと思えば、その翌週には芸術志向の強い作品が放送されたりという具合に、同じ枠なのに毎回作品のカラーが違うので、視聴率が安定しない。東芝の1社提供だった当時としてみれば、スポンサー側に不安もあったのではないだろうか。
他方で、このころにはテレビ業界全体でドラマのつくり方も大きく変わっている。作品の内容以前に、まず出演者を決めてからテーマや脚本家を選んでいくことも多くなっていく。単発枠ゆえテーマや手法で結構冒険もできた「日曜劇場」も、こうした流れに対処していかざるをえなかったのではないかと思うのだ。
さらに視聴者の側にも大きな変化が生まれていた。かつては一家に1台のテレビを家族みんなで囲んで見ていたのが、1990年代に入るころには家族一人ひとりがテレビを持つのが珍しくなくなり、また家庭用ビデオデッキの普及もあって、ドラマにせよ何にせよ、おのおの好きな番組を見るようになった。そこで視聴者のニーズも多様化していくことになる。
そうなると、番組づくりにおいてマーケティングが幅を利かせるようになる。フジテレビの月曜よる9時台のドラマ枠……いわゆる月9は、F1層(20〜34歳の女性)をターゲットにして1980年代末よりヒット作を連発していった。「日曜劇場」もまた、特定の視聴者層を意識して作品をつくる必要に迫られたはずだ。
実際、山田太一さん脚本・小林薫さん主演による『丘の上の向日葵』を第1作として連続ドラマ枠として再スタートを切った「日曜劇場」では、あきらかにある層を狙って作品がつくられるようになった。それは、30代以上の中年男性だ。私の見るところ、「おじさんのファンタジー」こそ、新生・「日曜劇場」の本質ではないかと思うのだが…これについては次回、『丘の上の向日葵』を例に考察しながら、90年代以降の「日曜劇場」の展開を見ていくことにしましょう。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。
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