《20年に及ぶ壮絶介護の終焉》荒木由美子、亡くなる 前日に義母が言った涙の「ありがとう」 燃え尽き症候群から芸能界復帰へ、直後にアリババ社長との出会いも
タレントの荒木由美子さん(65歳)は、結婚直後から義母の介護を担うことになった。子育てとの両立の日々は過酷を極めた。義母の介護をまっとうするまで約20年の日々だった。その後、燃え尽き症候群に陥ってしまう。そこからの仕事復帰や、「これからが新婚」と言う第二の人生を歩むまでを語ってもらった。
約20年介護をしてきた義母の最期の言葉
――約20年介護を、どのように終えられたのか教えてください。
荒木さん:義母が白血病だと診断されたのは、2002年12月のクリスマスの時期でした。急性白血病で危険だと告げられ 、私も夫の湯原(昌幸)さんも覚悟を決め、悲しみをこらえながら、正月前には遺影用の写真や最期に着せる着物も準備しました。
義母は総合病院に入院していましたが、正月の3日間には認知症の症状がおさまっていました。魂が抜かれたかのような表情が、若い頃のような穏やかな顔に戻り、「あけましておめでとう」と言い合って、孫の顔を見て「昌幸にそっくりだ」と笑っていました。4人で笑い合えたのは、本当に久しぶりでした。
――湯原さんの実家辺りでは「亡くなる3日前、花が咲く」と言うそうですね。3日間、昔の心が戻ってくると。
荒木さん:そうなんです。けれど、4日目には義母の容態も悪くなり、意識が遠のいたり戻ったりを繰り返す日々になりました。1月8日もいつものように面会に行って、点滴している手を握って「じゃあね、明日も来るよ」と義母に言ったのですが、なぜか帰る気になれなかったんです。湯原さんも息子も廊下に出ていたので、私も一度は部屋を出たのですが、また病室に戻りました。
すると義母は瞬きもせず、私をじっと見つめるんです。言いたいことがあるように感じたので、「喋れないだろうな」と思いつつも酸素マスクを浮かし、「何を言ってもいいんだよ」って声をかけたら「由美ちゃん、長いことありがとう」って。点滴をしている手で私をなでながら、何度も「ありがとう」と言ってくれました。その時はもう 涙が止まりませんでした。湯原さんも傍で泣いていて。
今思えば、義母は最後の挨拶をしたかったんだろうなって思います。私のことも、湯原さんのことも、孫のことも、1人ずつじっと見ていました。そして翌日、義母は静かに息を引き取りました。86歳でした。
燃え尽き症候群を心配した夫により、芸能界復帰が決まった
――その翌年に義母の介護生活をつづった『覚悟の介護』を出版。その経緯は?
荒木さん:1年経っても、私は燃え尽き症候群の状態でした。20年間ずっと義母の介護をしていましたし。友達にランチに誘われても行く気になりませんでしたね。湯原さんは仕事で家にいませんし、息子は20歳になって自立し始めていますから、自分だけが社会から取り残されている気分になったんです。自分のなかでは介護をやり遂げたという充実感はあったのですが、メダルや賞状があるわけでもありませんし…。
私がそんな状態だったので、湯原さんは毎日、心配して頻繁に電話をかけてくれました。「今日は何してるの?」「外に出なさいよ」って。そのうちに湯原さんのなかで、「由美子に新しい目標を持ってもらうことで、そのうち元気になるんじゃないか」と思ったらしくて、湯原さんの事務所の社長に私のことを頼んだそうです。
私は芸能界を離れて20年以上経っていましたから、肩慣らしではありませんが、夫婦一緒に出演する仕事から始めました。すると、たくさんお仕事のオファーがありました。 地方ロケに行くと皆さん声をかけてくださって 、「荒木由美子」を覚えてもらえていることも嬉しかったし、自信がつきました。
アリババグループ創設者、ジャック・マーからの誘い
荒木さん:そのうちに、中国のテクノロジー企業・アリババグループの創設者、ジャック・マーさんから中国の番組出演のオファーがあったんです。「なんで私?」と思ったのですが、私が主演したドラマ『燃えろアタック』(テレビ朝日系)が当時、中国では視聴率が80%以上あって、彼は学生の頃、このドラマ に助けられたんだそうです。大学受験に挫折しながらも歯を食いしばってこられたのは小鹿ジュン(役名)のおかげ、どうしても本人に会いたいって。
事務所の社長も「ひとつの良い機会をいただいたと思って」と言ってくださったので 、楽しむつもりで行ってきました 。空港には 小鹿ジュンのファンが200人くらい集まっていて、改めて中国での人気に驚きました。
小鹿ジュンは悩んだ時に逆立ちするのですが、マーさんも悩みがあると逆立ちをして考えてた そうです。アリババのオフィスには逆立ちルームもありました。中国で勇気をもらって、今まで断っていた義母の介護の本を書く覚悟が 出来ました。 帰りの飛行機のなかで草稿を作り始めていました。もう一度チャレンジしてみよう。頑張らなきゃって。
――結婚24年目にして、やっと新婚旅行に行かれたそうですね。
荒木さん:はい。結婚した2週間後に義母が倒れて介護が始まったので、新婚旅行どころではありませんでしたから。介護を終えて仕事も再開したので「銀婚式の前に新婚旅行に連れていって」と湯原さんに言ったんです。銀婚式はまた別にしたいと思ったので(笑い)。それで結婚24年目にして、オーストラリアのパースに新婚旅行に行きました。
キングスパークでもう一度、挙式をあげました。ドレスも着て、指輪の交換もして。 披露宴では息子からのお祝いメッセージも届きました。おばあちゃんのこともご苦労様って。20年の介護や子育ては成し遂げたので、これからは夫婦の時間ですね。
◆タレント・荒木由美子
あらき・ゆみこ/1960年1月25日、佐賀県生まれ。1976年、第1回ホリプロタレントスカウトキャラバンにて審査員特別賞を受賞し、芸能界デビュー。歌手・女優として活躍。1983年に歌手の湯原昌幸と結婚し、芸能界を引退。結婚2週間後に倒れた義母を約20年介護。2004年、その体験を綴った著書『覚悟の介護』出版を機に芸能界復帰。現在はテレビやラジオへの出演のほか、介護や家族にまつわる講演も行っている。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香