68才ソプラノ歌手「人生は60才からが楽しい」世界38か国でその国の国家を熱唱!
「オリンピックで国歌を歌いたい」──60才目前にそう決意して世界へ旅立ち、世界各国でその国の国歌を原語で歌い、話題を呼んでいるソプラノ歌手の鶴澤美枝子さん。パワフルで心揺さぶる歌声を持つ彼女は、なぜ、世界へ向かったのか──。
おたふく風邪が原因で一時半身不随になった幼少期
鶴澤美枝子さんは、香川県高松市で生を受ける。商いをしていた両親のもと、何不自由なくすくすくと育ち、地元の小学校に入学したものの6才の時に、おたふく風邪に罹(かか)ってしまう。
「両親は毎日仕事に行くために、私を近所のおばさんに預けていました。祖母が厳しい人で、母(現在86才)は子供が熱を出したくらいでは仕事を休めず、その日も、具合の悪い私を預けていたのですが、仕事先におばさんから『この子、様子がおかしいで!』と連絡が来て、それで初めて病院へ連れて行ってくれたのです。その時の診断は『重度のおたふく風邪で、しばらく様子を見ましょう』でした」(鶴澤さん・以下同)
しかし、その後も高熱は続き、ついには生死をさまよう状態に。赤十字病院に緊急入院し、奇跡的に目を覚ますと、下半身不随になっていた。
「病院で天井ばかりを見ていたら、ある日、ふと誰かが、『歩けるようになるから、練習してごらん』と声をかけて来たような気がして、思わず『はい!』と答えてからですね、母とともにリハビリを一生懸命するようになり、9才の頃には歩けるようになりました」
マリア・カラスに衝撃を受ける
その頃、オペラと出会う。
「誰が連れて行ってくれたか覚えていないのですが、オペラの舞台を見に行ったのです。その衝撃は半端じゃなくて、家に帰るとすぐ母に『私はオペラをやる!』と宣言しました」
だが、田舎に声楽の先生はいない。そんな彼女を救ったのが、1枚のレコードだった。
「高校1年生(15才)だったのですが、音楽教室に行った時、部屋の隅に並んでいたレコードが気になって、そのいちばん奥にあったレコードを抜き出したら、マリア・カラス(※1)だったんです。すぐにレコードプレーヤーにかけて聴いてみたのですが、彼女の声が流れた途端、こんなふうに私も歌いたい! と思ってしまって…」
マリア・カラスに心を奪われた彼女は、毎日8時間、ひたすらレコードを聴いて、ひたすらマリア・カラスの歌声をなぞる日々を過ごすようになる。
「声楽の先生にもついたのですが、『そんな声の出し方をしたら、のどがつぶれるよ』と注意されてしまいました。でも、この自主練で身につけた声の出し方こそが、今でも私の基礎になっています」
マリア・カラスを手本に、独自の歌唱法を身につけつつ、25才で結婚。27才で長女を出産した彼女は、30代に入ると、夫婦で仕事のため福岡に移住。そこで、子供たちにオペラを教え始める。
「子供たちに歌を教え、子供オペラの公演も行いました。でも、その公演が注目を集め始めると、福岡の主要な企業が応援してくれるようになり、そうなると名誉欲のある人が次々と現れ、子供の指導どころではなくなった。そのため、15年目を節目として私は手を引くことにしました」
夫婦で福岡の家を引き払い、久しぶりに故郷・高松に帰った彼女は、55才になっていた。
おめ1:マリア・カラス/20世紀最高のソプラノといわれたオペラ歌手。1977年に53才で没したあとも、その歌声は多くの人に支持されている。
『君が代』を日本中で歌いたい
「マリア・カラスさんは53才で星になりましたが、きっとやり残したことがたくさんあったと思うんです。幸いにも私は彼女よりも長生きしている。これからの人生は、自分の歌で人を喜ばせたいと思ったんです」
マリア・カラスに憧れ、オペラに没頭。ひたすら練習を重ねてきた彼女が、ソプラノ歌手としてスタートしようとした時、歌いたいと願ったのが『君が代』だ。
「夫は年下なのですが、彼は『君が代』を学校で習ったことがないというんです。確かに若い世代の人たちが『君が代』を歌えないことが問題になっている。だったら、全国を回って『君が代』の素晴らしさを伝えていこうと思いました」
歌う場所は、神社の御神殿(ごしんでん)と決めた。理由は、神社は日本中にあり、神様への奉納の意味も込められると思ったからだ。思い立ったが吉日。すぐに実行に移す。それが鶴澤さんのモットーだ。
感謝と信念が道を開く
神社で歌うことは決めたが、あてはまったくなかった。
「『日本人ならお伊勢さんとこんぴらさんだろう』と思い、まずはこんぴらさんの社務所を訪ねましたが、当然、相手にはしてもらえませんでした」
しかし、ここで諦める鶴澤さんではない。
「手掛かりを探していると、参道にあるお店の社長さんが力になってくれました。社長さんの前で『トゥーランドット』を歌ったら驚かれ、2週間、店の前でのストリートライブを許可してもらえたんです」
香川・金刀比羅宮の参道でストリートライブを行いつつ、ちょうど東日本大震災の1年後だったこともあり、この時、鶴澤さんは宮城・石巻を訪れた。
「石巻から女川町(おながわちょう)まで行って、避難所でも歌わせてもらいました。私が『君が代』を歌うと、皆さん泣かれるんですよね。『「君が代」って暗い歌だと思っていたけど、鶴澤さんが歌うと希望や勇気が湧いてくる』と被災地の人から言われたのが印象に残っています」
その後、金刀比羅宮の社務所を訪ねると、許可が下りた。
「参道で2週間歌わせてもらえたことと、被災地で歌ったことが大きかったですね」
こうして奇跡は起きた。
「感謝の気持ちと信念を持ってさえいれば、どんな願いだって叶えられると思います。私は全国の護国神社を回っていますが、これは茨城県護国神社の宮司さんが私の歌を聴いて、紹介状を書いてくれたからできました。その宮司さんは伊勢神宮の広報担当もしていらしたかたで、顔が広くて、いろんなかたを紹介していただきました」
この鶴澤さんの旅は、2年半に及び、日本を3周ほどしたという。
60才で世界を目指す
鶴澤さんの夢はここからが本番だ。60才にして、ついに世界へ旅立ったのだ。
「なぜだか、ブラジルが私を呼んでいると閃(ひらめ)いたんです(笑い)。だから、動画サイトでブラジル国歌を探していて聴いてみたら、オペラに近いんですよ! これは絶対に歌いたいと思いましたね」
ただ歌うにしても、現地の人が聴いて、すごいと思ってもらわないと始まらない。
「それで、とにかく徹底して聴きました。毎日、何時間も繰り返し聴いて、4か月かけて覚えたんです」
ブラジルにある香川県人会の協力を得て、サンパウロの宿泊施設を借りる手はずを整えて渡航。3か月間、老人ホームや学校、刑務所、施設、祭りなどで歌った。
「私の歌を聴いて立ち止まり、涙してくれたり、『天から降りてくるような声はどこから出ているのですか?』など、多くのかたから声をかけていただいて、うれしかったですね」
今ではブラジル在住の日系人の間ではすっかり有名人。
「2016年のリオデジャネイロ五輪の閉会式では、リオから東京にバトンタッチする際の歌を、『美枝子が歌うのだと思っていた。なぜ歌わないのか?』と、真顔で言われたこともありました」
その後もブラジルを皮切りに、南アフリカ、デンマーク、ブータンなどさまざまな国で歌を披露しているが、どの国でも大きな話題となり、大使館のレセプションに招かれたこともある。最近は、取材を受けることも増えたという。
「初めて行く国でも、これまで会った人たちが知り合いを紹介してくれるので不自由したことはありません。精一杯努力して、感謝することを忘れなければ、助けてくれる人は必ずいます。私はお金に無欲ですが、思いがけず、寄付してくれる人まで現れるんです」
もちろん旅はいいことばかりではない。渡航先では下痢や虫刺されとも闘った。
「私は、お天道様から世界中の国歌を預かっていると思い込んでいるんです。だから、ピンチがあっても歌うために守られていると感じます。私が歌う前に手を合わせるのは、お天道様をはじめ、すべてに感謝しているからです」
目下の夢はオリンピックで歌うことだ。
「とはいえ、東京五輪では若い人に『君が代』を歌ってほしいんです。だから、私は表彰式で優勝した国の国歌を会場から歌うのが夢。そのあとは宇宙で歌うことかな」
今の中高年層は元気がないけれど、いくつになっても夢を持ってほしいとも。
「私は命をかけて、努力してきました。だから60才を前に人様の前で歌う夢が叶えられたと思うんです。人生は60才からが楽しいですよ。これまで培ってきた経験が生かされますから。私は120才くらいまでは歌いたいから筋トレは欠かせません」
その夢、そのうち叶えられる気がした。
■ソプラノ歌手 鶴澤美枝子さん(68)
つるさわ・みえこ。1951年、香川県高松市出身。60才で世界の国歌を歌うワールドツアーをたったひとりで開始。これまでに訪れた国は38か国に上り、国歌のレパートリーは62を超える。家族は夫と長女、長男の4人。今も4回目のツアーを行っている。
撮影/平野哲郎
※女性セブン2019年7月25日号