「父からかかってきた1本の電話が始まりでした」父が行方不明になった10年前を回想/その1【実家は 老々介護中 Vol.18】
80才になる父は、がん・認知症・統合失調症と診断され、母が在宅介護をしています。美容ライターの私は、たまに実家を手伝っています。父の体調が小康状態となり、大変だった時期を振り返ってこれからもどうにかやっていこう、と母と話しました。精神科に通い始めた10年ほど前、家出してしまったときは本当に生きた心地がしなかったのですが、あれ以来、母と私、いざというときの兄という3人の結束力は深まったのです。
失踪事件を思い出しながら、母とお茶を飲む
少しの期間、介護の凪が訪れました。必ず次のフェーズが来るので少しソワソワした気持ちもありますが…。凪の間に母と私がよく語り合うのは、10数年前に妄想から父が家出して、5日間も見つからなかったときのことです。
「お父さん、いなくなっちゃった」
突然すぎる母からの電話に、私はのけぞりました。
「ええっ? 何よ、どういうこと?」
そう言いながら、最近父から変な電話が来ているのに、相手にしていなかったのを後悔。
「お父さんさ、もうお金がないんだからね。自分は浮気してないのに、家にいる場所もないんだから」、そう話す父に困惑した私は、怒ってしまいました。
「は? 何言ってんの? ちょっと、お母さんに電話かわってよ!」
意味不明な電話が数回あった後、結局、父は病院で鬱と診断されました。私は、「お薬をもらったなら、まずは様子を見よう」と楽観視。当時の私は、3才と8才の子育てをしながら仕事をしていて余裕ゼロ… 。父が失踪したのは、その数か月後でした。
「買い物から戻ったら、お父さんがいないのよ。自分のお小遣いの入ってる通帳と印鑑、持ってったみたい」
母が言いたいのは、父は自分の意思で家出したが、鬱の症状によるものだろう、ということ。
母はすでに警察へ捜索願を出し、役所にも届け出を済ませていました。当時まだ関わりのなかった地域包括支援センターにも状況を伝え、近くの駅やタクシー会社、バス、スーパーなどにも、それらしい人がいたら連絡くれるよう連絡済み、とのこと。
このように各所への連絡を速やかにした要領の良さは、両親が住む集合住宅の管理人さんのファインプレーによるものでした。
父を探してウロウロする母の様子を不思議に思い、何度も話しかけてくださったようです。
母が「父の姿が見えない」と言うと、「命に関わることなので一刻も早く届け出たほうがいい」と、集会所の電話を貸してくれたのです。母は、そこから警察署へ連絡し、すぐ捜索願を出しに行ったそう。
さらに管理人さんのサポートで、近隣の防犯カメラの情報まで手に入れることができました。最寄り駅では、下りホームへと向かう父の様子が映っていたそうです。
実家の駅は終点3駅手前で、終点駅はビジネスホテルなどもある大きめの駅。父がどこかへ泊まろうとするかもしれないと、仕事を切り上げて帰ってきた兄が、ホテルを探しに行ってくれました。
私が夫と義父母に子どもたちを頼み、片道2時間の実家へ着いたのは夕方。町内のスピーカーからは「ゆうやけこやけ」と、「行方不明者を探している」という、父に関するアナウンスが流れていました。
母には家で待機していてもらい、私は、「終点の手前にある駅を探してくるね。あそこの神社、参道のお蕎麦屋さんとかよく一緒に行ったよね」と、無駄かもしれないと思いつつ出かけました。
この日収穫はなく、私も兄も、20時ごろには実家に戻りました。母が言うには、「おまわりさんが、川や用水路などの危ないところを探してくれて、お父さんらしき人は見つかっていない」とのこと。
また、警察に捜索願を出したとき、父の写真を渡して失踪時の服装などを伝えたら、「服は着替えちゃうかもしれないけど、靴は履き替えないことが多いから、靴がわかると良い」と言われたようです。
「靴の写真はなくてさ」と、母は靴の写真を渡せなかったことに妙にこだわっていて、気持ちの持って行き場がない様子でした。
* * *
まだSNSでの拡散も盛んではない時代。「やみくもに探しても、確率は低いぞ」と思いながら、じっとしていられず、1日でヘトヘトに。
この後、父は思いがけない場所で見つかります。次回につづく… 。
文/タレイカ
都心で夫、子どもと暮らすアラフィフ美容ライター。がん、認知症、統合失調症を患う父(80才)を母が老々在宅介護中のため、実家にたびたび手伝いに帰っている。
イラスト/富圭愛