小池百合子都知事が語る母との最期の日々(前編)
各界で活躍する人達にご登場ねがい、自身の介護経験や想いを語っていただく新シリーズ「私と介護」。
忙しく働きながら親の介護を続けたあの人。介護を仕事としながら別の仕事と二足のわらじを履くこの人。様々なかたちで介護に向き合う人達の話から、現在介護中の人がどのように介護に向き合うべきか、ヒントや社会が抱える介護の問題を探り出す。
初回は現東京都知事・小池百合子氏だ。各種の会議や懇談会はもちろん、2020年に迫る東京オリンピック・パラリンピックに向けての準備などに忙しいはずだ。職務の合間を縫って、小池氏は直接取材に応じ、自身の母の介護経験を語ってくれた。
2013年の9月に、母・恵美子さん(享年88)を自宅で見送った小池氏。本人は「短い間だけど」と語るが、彼女が取り組んだ在宅介護にはたくさんの気づきが含まれており、興味が尽きない。
大正生まれ「粋で肝っ玉の太い」と娘の小池氏が語る母。晩年の15年間を共に暮らした小池氏は、どのように介護と向き合い、見送ったのか。前後編の2回に分けてご紹介する。
集団検診でステージ肺がんが見つかった母
最高気温41.0℃(高知県)、気象庁が統計を始めて以来、最も高い気温を記録した2013年。
当時、小池百合子氏は衆議院議員として忙しく活動しており、自由民主党の広報本部長の要職も担っていた。前年の上旬に母・恵美子さんは肺がんの診断を受けた。自治体の集団検診で肺の影が発見され、精密検査の結果、4段階あるステージのⅡA期との診断だった。
「今のところ大きな動きはないが、今後転移する可能性もある。どうされますか?」 担当医師は小池氏に問うた。
リンパ節への転移はない段階だが、完全に取り除くには外科手術が必要となる。ダメージの大きな手術は高齢の身体にはかえって危険だ。
「手術に限らず、抗がん剤や化学療法、放射線療法など、ガンには多くの治療方法があります。母にとってどの選択がベストなのか、それこそ文献を読み漁り、友人知人にも聞きまくりました」(以下、「」はすべて小池氏)
もちろん恵美子さん自身にも聞いてみた。返ってきた答えがふるっている。
「『手術するとなると長期の入院でしょ、タバコも吸えないし』って、言いながらプカリと煙を吐くんです」
小池氏は呆れたように言った。そして「タバコって……肺がんなのにね」と笑った。これを機にと、禁煙を勧めたらしいが、次のような即答だった。
「私は死ぬまで吸うわよ」
生きる覚悟を教えてくれた自慢の母
恵美子さんの豪傑伝説はこれだけではない。
1976年、小池氏がエジプトのカイロ大学を卒業するのと入れ替わるように、恵美子さんはカイロに渡り商売を始める。還暦直前、長いこと専業主婦だった女性の、突然で華麗な転身だった。
小池氏の留学中、母の恵美子さんは旅行で彼の地を訪れた。見知らぬ土地での商売を決断したのは、この旅がきっかけだった。
「カイロに一軒だけあった日本料理屋で、大好きなすき焼きを注文しました。あちらでは白菜が手に入りにくく、代わりにキャベツを使っていました。それがどうしてもお気に召さなかったらしく、『これはすき焼きじゃない』ってすごい剣幕で(笑い)」
帰国から数ヶ月後、恵美子さんは突然宣言するのだった。
──私がカイロで日本料理店をやる。
不安と反対の声は当然あった。しかし恵美子さんはどこ吹く風と、準備を進めた。
1年後、カイロの高級住宅街モハンデシーン地区に、日本料理店『なにわ』はオープンした。
店はスタートから好調で、イラン革命で国を追われたパーレビ元国王家族などのようなVIPもお忍びで来店したという。
惜しまれつつも閉店し、帰国したのは実に20年後だった。当時、カイロで最も有名な日本人は間違いなく小池恵美子さんだった。
また「人と同じじゃつまらない」とアラビア語を学ぶため、カイロ大学への留学に小池氏の背中を押したのも恵美子さんだった。
「父との結婚生活を通じ、たとえ悪いことが起こっても、自分で生きる道を確保しておけば安心と、生きる覚悟を教えてくれたお陰で、私も覚悟する人間に育ちました。自慢の母なんです」
「エコだハウス」でも耐えかねる猛暑
話が脇道にそれた。時計の針を2012年に戻す。
肺がんの診断を受けたあと、母と娘は治療の可能性について話し合った。
「どんな治療も身体にダメージを与えます。『残りの人生、辛い思いはできるだけせずに、楽しく生きたい』、そうした言葉もあって、がん細胞と戦わずに、共生するという方針を定めました」
ここからしばらくは、介護というより見守りだった。幸い1年以上、がん細胞が暴れだすことはなかった。むしろ加齢や、病気への不安からくる気分の落ち込みと、戦う日々だった。
年が明け、2013年は既述のとおりの猛暑だった。実際この年は熱中症など、暑さによる高齢者の死亡事故が相次いでいる。厚労省の調査によると、熱中症が原因で死亡した人は1077人で、うち65歳以上は833人。統計として把握できる1964年以降過去最悪の数字だった。
小池氏は自宅を「エコだハウス」と呼ぶ。環境への配慮を搭載した、いわば実験的住宅だ。できる限りエアコンを使わずに生活できるための工夫などが、そこかしこに施されていた。
しかし、肺がんを抱える恵美子さんの体に、この夏の暑さはさすがに毒だった。
「いろいろな不安があったのでしょう。うつ気味だった母は、症状の改善のために近くの病院に通っていました。ただ、春を過ぎたころからの猛暑もあり、急激に衰え始めたのです。そもそも食が細い人でしたけど、なおさら食べなくなって、もっぱら主食はアイスの『ガリガリ君』でした。これじゃだめだ──。自分としてもそうしたことに気づいていたらしく、『一度しっかり入院して体力を回復したい』と言い出しました。私もまさに同じことを考えていたので、すぐに行動しました」
2013年8月26日、自宅からほど近い、地域の中核病院に入院が決まった。
「入院当初はすごく調子が良かったんです。『ここは軽井沢みたいで快適だわ』って。ただ、やっぱり検査疲れがあったようで、入院後数日が経過するとだんだん元気がなくなってきました」
余命1か月と宣告…そして決めた覚悟
検査漬けの日々は、思わぬストレスを招いた。看護師によるたんの吸引の際に、喉の粘膜を傷つけ、出血するという事故もあった。以降、検査や治療に対して後ろ向きな様子が目立つようになる。
「そうした中で、担当の先生に、『お母様の余命は1か月ほどです』と宣告されるのです」
肺がんであることはわかっている。ただ、そこまで病状が進んでいるとは思っていなかった。担当医の言葉は続いた。
「『これ以上、医療的にできることはありません』、そうした言葉を聞いて、だったら家につれて帰ろう。そして私が自宅で看取るのだ」
ほぼ即断だったという。母も「そうね」と意志を表した。
「理由は、いくつかありました。まず、父を看取ることができなかったという後悔です。死に目に会えなかったことを思うたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになります。だからこそ、母のことは、ちゃんと見届けたいと思いました。そして、もう一つ、事務所のスタッフの一人に自宅でお祖母様を看取った経験がある人がいたのですが、お祖母様も家族も幸せだったと聞いたからです。
しかし、自宅での介護に自信があったわけじゃありません。わからないことばかりです。ただ当時は議員の仕事のほうも、国会が閉会中で時間の都合はつけやすいというタイミングでもありました。長年、住み込みで母の面倒をみてくれるヘルパーさんの存在も大きかった。さらに、うちの事務所のスタッフもすごく協力的だった。そうした環境に恵まれていました」
とは言え、在宅での療養は、全く初めての経験だ。受け入れのための準備なども、どこから手をつけていいのか見当もつかなかったと振り返る。
それでも小池百合氏子は覚悟の人だ。
「母を連れて帰り、普通の生活をさせる、それが一番の介護だと思ったのです」
と力強く語る。
「そもそも病院生活は彼女の性に合っていないのだと、私は考えました。母は、以前、尊厳死協会に入りたいと話していました。病気が治らないなら延命治療はしたくないと。好きなものを食べ、好きなことをして楽しく暮らしたい。不自然に長生きしたくないって。あと、病院食って……あれでしょ、えっと、例えばみんなでつつける鍋は出してくれないわけじゃない(笑い)」
前編はここまで。後編はいよいよ自宅介護について都知事が語る!
撮影/政川慎治
取材・文/末並俊司
『週刊ポスト』を中心に活動するライター。2015年に母、16年に父が要介護状態となり、姉夫婦と協力して両親を自宅にて介護。また平行して16年後半に介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)を修了。その後17年に母、18年に父を自宅にて看取る。現在は東京都台東区にあるホスピスケア施設にて週に1回のボランティア活動を行っている。