84才、一人暮らし。ああ、快適なり<第1回 そもそものはじまり>
昌子さんからも勧められて、『生き方、六輔の。』の作業が始まった。永さんに自分の生き方を語らせることで、病床の妻を癒すという計画もあったのである。いわば昌子さんへのレクイエムだった。
三ヶ月後に完成し、昌子さんに手渡すことが出来た。
これまでの自分の生き方を真剣に吐露する傑作になった。『生き方、六輔の。』を脱稿するや、私は次作『老い方、六輔の。』のインタビューに取りかかった。
残念なことに、昌子さんは『老い方、六輔の。』を読むことが出来なかった。茫然自失する永さんに寄り添うようにして、私は三作目の『死に方、六輔の。』のインタビューを開始した。いずれも飛鳥新社から出版している。
かくて三部作が世に出たのだが、第一作目ほどの作品は当然ながら生まれなかった。
語り合いたいことは山ほどあったが、どうせやるなるノビノビとやりたいと話し合っていた頃に、思いがけない話が舞い込んだ。
この三部作を読んだ月刊誌『現代』(講談社)の編集者から連載対談の依頼があった。2005年10月号に「抱腹絶倒・人生道中膝栗毛」の連載が始まった。四年半後に『現代』が休刊になるまで対談は続き、三冊の本が講談社から出版される。『バカまるだし』(2007年)、『ふたりの品格』(2008年)、『ははははハハハ』(2010年)がそれである。
月刊誌『創』から、連載対談を引継ぎたいという申し入れがあり、私たちはそれに応じた。2009年5月号から2013年4月号まで「ヂヂ対談」とタイトルを変更して続いた。そして二冊の本が創出版から上梓されている。計五冊になった。
しかも誌上だけでなく、ライブハウスで毎月一回の生対談を行うようになる。明らかに私たちは老いに向って、走り始めていたのである。ある種の確認を求めていたに違いない。
共に”素晴らしい老いを”求めた友の病
永さんが転んだ。東北で地震が起きて間もない頃であった。週に二度。三度目に骨折し、入院を余儀なくされた。検査の結果、パーキンソン病と診断される。
素晴らしい老いを求める二人三脚が頓挫した瞬間でもあった。何と二人共にすでに八十才をとうに超えていた。
キッカケを探していた私は一人暮らしをすることで、自分の老いと向き合う決断をしたのである。私は直ちに計画を実行に移した。残り少ない人生を、納得できるものにするために。
家族と離れ、一人暮らしに踏み切る
私は千葉県松戸市の家を出て、都心のウィークリー・マンションに入居した。持って出たものは身の回りの最小限の必需品だけ。筆記用具さえあれば仕事はできる。長年共に生活してきた家族と別れ、単身赴任に踏み切ったわけである。
この実験は、すでに四年続いている。その詳細を書き綴ってみるつもり。乞うご期待というわけだ。
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。