【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第45回 腑に落ちないこと」
写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによる、フォトエッセイ。父亡き後認知症を発症した母と暮らすために、千葉県勝浦市に住まいを移した飯田さん。母娘の2人暮らしが数年続いてきたが、新たに家族となった仔犬の存在や認知症の進行もあり、しばらく介護施設で生活することになったが、長期の施設暮らしを経て、また自宅に戻る母娘の暮らしが再開した。
* * *
余裕のある心持ちになってきた
このところの私は、介護の気持ちに変化が起きていると感じている。イライラしたり、特別焦ったりすることが無くなってきているのだ。
理由は母の認知症が進行し、いわゆる「まだら認知症」から「短期記憶が全くない認知症」になったせいかもしれない。
今までは、ある時は「これは認知症か?」という反応していても、ある時は以前と変わらない母になる。その様子の入れ替わりに翻弄されていた。今でも話している時は「はいそうね。わかった」と相づちは決まって返ってくるのだが、受け取る私が「今はわかっているけど、数分後は忘れているね」と覚悟が決まってきたのだ。
もう一つ、自分の中にも確実に「老い」の萌芽が育っているということを受け入れつつあるせいかもしれない。
友人の中には「気持ちは20代の頃と全く変わらないのよ〜」と豪語する人もいる。それはそれで良い。でも私自身は若い頃よりむしろ何をするにも経験値がある今の方がスムーズに感じている。たとえば旬の野菜で手早く美味いものを作れる。健康のための日々の知恵も技術も備わりようやく「板についた」感じがするのである。
時の過ぎ方もビジネスモードから快適モードへ変化してきた。「忙しい」という文字は「心を亡くす」と書く。今はようやく心を取り戻している時期なのかもしれない。そう、余裕の裕子になってきていると自負する昨今だった。
それなのに・・・どうしても腑に落ちないことが起こった。
施設に持参した荷物が行方不明に
母が長期の施設入所から戻り、荷をほどいた時のことだ。ずっと春や秋に来ていた薄手のコートが見当たらない。さらに、冬になる前に施設に持っていったはずの紫色の大判のストールも見当たらない。もちろん認知症の母の仕業でどこかに置いてきた?との予想もした。でも母は1歩も施設外へ出ていないはずだ。
そこでケアマネさんに連絡を入れその旨を伝えた。
すると「うーん、荷物は確認して全てお渡ししているはず・・・。誰かにあげてしまったのかな?」との返事。余裕の裕子の心持ちであった私は、その時はお世話になったのだからまあいいか。と、それ以上確認のお願いはしなかった。
思えば突然の長期入所だったし、荷物のチェックは施設でしてくれるものと信じ、持参した衣服のメモなどは家に残しておかなかった。高価なものでもないし、何かの手違いがあったかもしれない。ただストールは以前私が海外ロケの時に私と母に色違いで求めたもので母も冬の間はいつも手元に置いていたので残念である。
そして、同じ施設で今度はショートステイへ。
相談員さんからいただいたショートステイに必要な物リストを見ながら準備をする。長期とショートでもは指示が違う上、施設によっても準備の指示が違うので間違えないようにリストを見ながら整える。
衣服や下着に書く名前も洗濯しても落ちないよう、ネームタグを洋品店で購入しそれにマジックで「イイダケイコ」と書いて貼った。そんな準備を整えてショートへ入所してから3日後のことだった。
「洋服も下着も全然たりません!あと3枚ずつ追加で持ってきてください!」とケアマネさんから連絡が入った。
「リストの通りに揃えたのですが足りませんか?」と私。「そうなんですよ。全然足りません!」とケアマネさん。
家にももうストックの下着などもないのですぐ洋品店(なるべく安価で洗濯が楽であるもの)で買い足し施設へ持参した。事務局の窓口の方に渡し「リストに追加分の枚数を記入お願いします」と私。「承知いたしました」との返事だった。
そして10日後、出所のために迎えに行くと荷物心持ち少ない気がする。入所の時には、まだ肌寒い日々だったので毛布も一枚追加したのだがそれもない。そしてリストを見ると入所の時の枚数にその後追加した記載もなく、出所のチェック欄の数はそれと同じだ。
とりあえず家に母を連れて戻り、荷物を解いた。やはり衣服が数点ない。これはもう黙っていることはすまい、とすぐに連絡を入れ、その旨をお伝えした。
事務局のメールアドレスを聞いて、紛失したものの一覧を写真付きで提出し捜索をお願いした。その結果、紛失物は見つからなかった。一体どこへ消えてしまったのか謎は残るままだ。
後日、事務局長さんと相談員さんが謝罪にみえた。
「こちらへの不満があるとの事ですから次回からはお使いにならないのですね?」と問いかけられた。
私は「いえ、母は施設滞在に不満はないと言っています。ただ、衣服の入所時の枚数などのAさんとBさんで指示が違うということは避けてください。そして衣服管理で改善点があればぜひそうしてください」と伝えた。
次回のショートステイの入所時には「持参の衣服をタブレットで撮影し記録します」との返事だった。
そして、ショートステイ入所の時には時間はかかるが、4セットの上着、スラックス、下着、靴下までを一つの袋に入れて、それぞれ私もタブレットで撮影をした。
施設内で母と面会
その1週間後、ようやく施設の滞在フロアで面会ができるようになった。この数年、施設はコロナ禍で外部と内部の壁が厚くなり外からは内部事情が全く見えない状態だったのだ。
初めて母が滞在している3階フロアで面会をした。認知症に特化したフロアであると聞いてはいたが、30〜40名はいるだろうか。4人がけのテーブル席に座り、空を見つめた老人たちがテレビの音も、喋り声もない空間に佇んでいる。
母は小声で「皆あまり喋らないの。シャイなんだね」と言う。15分の面会時間で母とおしゃべりした。
母「下にある池を毎日見ていてね、かわいい鴨の親子がいたんだけど、ある朝皆で旅だっていってしまったね。だから今は寂しくなったね。」
母の席は窓側の一番奥だと言う。
私「背の高い男性が窓辺に立っているね。姿勢も良く、そんなに老いたふうには見えないね」
母「ああ、あの人は隣のテーブルから時々やってきて喋って行くよ。男の人はすぐにいなくなってしまうんだ」
私「あと10日したら迎えにくるからね。あ、覚えてなくてもその日はスタッフの人が準備してくれるから大丈夫。じゃあそれまで元気でね」
別れ際、手を振りつつエレベーターに乗る。ドアが閉まるまで手を振り続ける母の姿があった。
帰路の車中、胸が少しモヤモヤした。勝浦の家の庭を歩いて花を摘んできたり、編み物をしたりする母の姿と認知症フロアの中の1人として座っている母の姿がどうしても結びつかない。
「どうしたらいいのかな?」とひとりごちた。
その数日後、ケアプランを作ってくれるケアマネさんより連絡が入り「6月からのショートステイはいっぱいなので、別の施設への入所をおすすめします」とのこと。
もしかして、母の衣服紛失に関して私が物申したことがお断りの理由かもしれないな、と思った。カスハラ的に受け取られてしまった・・・?気のせいかもしれないが少しそんな考えが浮かんだ。
母の日の母
母の日のこと。カーネーションは無いが庭の花で作った花束と小豆を煮て手作りのおやつを用意した。花束の花は、父が残した球根の花と私が植えたハーブの花のコラボとなった。
そして、94歳の母のポートレートを撮影。
相変わらずポージングや表情を作る時の明るさは健在だ。しかし、母の日ですら母はすぐに忘れる。そして忘れることを苦にしない。それが一番だ!
皐月晴れのある日の午後、犬のハルも母も一緒に庭に出た。するとハルは母の足元に「投げて」とフリスビーを持っていった。
「いやあ、できないよ〜」と母は言ったが、「ママ、テニスしていたじゃない。バックハンドと同じだよ!」と教えると勢いよく飛ばし、ハルが追っていった。
94歳の母のフリスビーが新緑の風の中を飛んでいった。
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。 (公社)日本写真家協会会員1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は千葉県勝浦市で母と犬との暮らし。仕事で国内外を旅し雑誌メディアに掲載。好きなフィールドは南太平洋。最近の趣味はガーデン作り。また、世田谷区と長く友好関係を持つ群馬県川場村の撮影も長く続けている。写真展に「海からの便りII」Nikon The garelly、など多数。
写真集に「海からの便りII」「長崎の教会」『Bula Fiji」など。
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