作家・落合恵子さん、認知症の母を介護した7年間「深夜2人で読んだ絵本は…」
在宅で介護をしていると、さまざまな苦労と喜びにあふれた毎日を送ることが多い。作家の落合恵子さん(76)が、認知症の母を自宅で介護した壮絶な7年間について、看取りから14年経て語ってくれました。「介護していたつもりが、母という存在そのものにケアされていた」と話す、その日々とは――。
同居して介護するのは自然な選択だった
作家の落合恵子さんは、母の春恵さんが2000年にパーキンソン病と診断されたのを機に介護を始めた。病気の進行とともに体の動きに障害が表れ、日常生活が困難になっていく。そんな母を同居して介護するのは、あまりにも自然な選択だった。
「母が祖母を在宅で介護して、見送ったのを傍らで見ていたので、そんな日が母に訪れたら、私もそうするのだと漠然と考えていました。それに、母をかけがえのない存在だと思いながらも、仕事を優先してきてしまった過去があり、母が病を得たいまは、『母を第一にしよう、それまでの埋め合わせをしたい』という思いが強くあったのです」(落合さん・以下同)
昼夜逆転した母と深夜絵本を読んだ
春恵さんはアルツハイマー型認知症を併発し、リビングで座ったまま排便してしまうようなこともあったが、介護ヘルパーらの手を借りて、介護を続けたという。
「とにかく必死でした。母の呼吸、体温、血圧、脈拍、血中酸素などの変化についていくので精一杯。“はあはあ”と荒い息を吐きながら走り回って、壁にぶつかったり、はじき返されたり、落ち込んだり。それでも母が昼夜逆転となった頃、深夜に2人で絵本を読む時間を設けたことは、楽しい思い出のひとつになっています」
何度もリクエストされたのは『アンジュール ある犬の物語』(ガブリエル・バンサン著)。エンディングがハッピーな絵本を選ぶようにしていた。このほか、好きな音楽を聴いたり、クリスマスシーズンはツリーにオーナメントを飾ることもあった。
「少しでも日常の暮らしの中に、心弾む瞬間や笑い声のあがる瞬間を持ちたいと思って、そんな瞬間を私は“小さなお祭り”と呼んでいました。母をあんなにも身近に感じることができたのは、子供時代以来かもしれませんね」
母という存在そのものにケアされていた
元気なうちに終末期について語り合うことがなかった落合さんは、医療に関する選択をキーパーソンである自分がひとりでしなければならなかった。「胃ろう」の選択も、迷いつつそうした。
2007年の夏、次に入院すれば、鎖骨上からカテーテルを通して人工的な生を与えられることになる。それよりも自宅で最期まで母と過ごすことを選択したその日に、春恵さんの呼吸が止まり、亡くなった。
「私は介護しているつもりでしたが、実際は、母という存在そのものにケアされていたのかもしれない、と、見送ってから痛感しました」
看取りから14年、母からの宿題
あれから14年が過ぎようとするいま、
「お母さん、1か月でいいから戻っておいでよ。そしたら私、もっとゆったりとした、もっと楽しい介護をお母さんに贈ることができるかもしれない。母からの宿題としてこう考えます。元気なうちに終末期について話しておきたい、と。胃ろうのこと、延命治療などについても頭を悩ますことなく結論を出せたかも…、と」。
自分自身の最期を考えたとき、周囲に同じ思いをさせないために、落合さんは毎年元日にリビングウイル(※)を書いている。
(※)リビングウイルとは、人生の終末期を迎えたときの医療の選択などについて、事前に意思表示をしておく文章のこと。
落合春恵さんヒストリー
・1923年 春恵さん誕生。
・1945年 未婚のまま、娘・恵子さん誕生。
・2000年 パーキンソン病を発病。自宅での介護生活が始まる。
・2004年 アルツハイマー病を併発。
・2007年 8月 死去(享年84)。
教えてくれた人
作家 落合恵子さん
1945年、栃木県生まれ。子供の本の専門店『クレヨンハウス』と、女性の本の専門店『ミズ・クレヨンハウス』、オーガニックレストランなどを東京と大阪で主宰。著書に『泣きかたをわすれていた』(河出文庫)などがある。
取材・文/山下和恵
※女性セブン2021年7月15日号
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