亡き妻へ…欽ちゃんの想い「スミちゃんが先っていう順番でよかった」|妻を見送った萩本欽一が伝えたいこと(2)
「ぼくの中ではスミちゃんは生きている」と言う萩本欽一さん。前回の「今始まったスミちゃんとぼくの新しい物語」では、まさに「糟糠の妻」だった澄子さんとの出会いから結婚、独特だった夫婦の関係、そして「最後の会話」について語ってもらった。見送って約半年がたった今、澄子さんは心の中でどういう存在になっているのか。夫婦の絆について、ひとりで歩いていくことについて、欽ちゃんの言葉はたくさんのことを教えてくれる。(聞き手/石原壮一郎)
→欽ちゃんが語る「今始まったスミちゃんとぼくの新しい物語」|妻を見送った萩本欽一が伝えたいこと(1)
ぼくより長生きすると言ってたのに…
ほんとはね、スミちゃんはぼくより長生きする予定だったの。彼女はずっとそう言ってたし、ぼくもそのつもりだったんだけどね。
スミちゃんは奥さんというよりも一番のファンとして、コメディアンの萩本欽一をずっと応援してくれてた。この人の面倒は最後まで私が見るっていう気持ちだったのかな。ひとりで置いていくのは心配だったのかもしれない。だいぶ前に「そういうことなの?」って聞いてみたんだよね。
そしたら笑いながら「違うわよ。どのぐらい貯めてるのか見てみたいから。いなくなったら全部わかるでしょ」って言ってた。ホントのところはどうなんだろ。見たとしても「これっきゃないの」って思われるぐらいしかないから、バレなくてよかったけどね。
去年の秋に『週刊文春』の月イチ連載「欽ちゃん79歳の人生どこまでやるの!?」で、スミちゃんがいなくなったことと、亡くなる前の「ありがとうの物語」の話をしたの。そうしたら、あちこちからどんどん電話がかかってきた。「奥さん亡くなったの? ぜんぜん知らなかった」って驚いた人も多かったけど、たくさんの人が「泣けたよ、欽ちゃん」って言ってくれたんだよね。
泣ける話にするのは、スミちゃんらしくないから…
気持ちは嬉しいんだけど、ぼくは「うーん、困ったな」と思った。スミちゃんは昔から、ぼくがテレビや雑誌で「とってもいい妻です」なんて言うと、「そういうの、しんどい」って怒ってたから。だから、泣ける話やいい話ばっかりにしちゃいけないなと思った。それはスミちゃんらしくない。ぼくとしても息苦しいし、満点の奥さんのままだとスミちゃんのことを誤解しちゃうかもしれない。
スミちゃんとの「新しい物語」を作っていくにあたって、3人の息子たちや、スミちゃんの世話をしてくれてた義妹に、「いい奥さんだったって話ばっかりじゃなくて、もっとマヌケな話とか、ダメな奥さんだった話を教えてほしい」って頼んだの。そしたら義妹から出てきたのが、前回に出てきた「本当はけっこうお酒を飲む」ってことと、もうひとつは、仲のいい人たちを連れてちょくちょく旅行に行ってたってこと。
「私も連れてってもらったんだけど、何人かでラスベガスに遊びに行ったことがあるのよ。お義兄さん、聞いてない?」
聞いたことないよ。まったくの初耳。そしたら、子どもたちからも「たまに20日ぐらいいなくなることがあった。どうやら友達とツアーを組んで、あっちこっち温泉をめぐってたらしい」という証言があった。そういえば、お正月に帰ろうとしたら「私には私の都合があるから、仕事してなさいよ」って言われたことがある。3姉妹でご飯食べたり、友達と旅行に行ったり、スケジュールがいっぱいだったみたい。
それ聞いて、ぼくはホッとした。ちゃんと自分の人生を楽しんでたんだって。勝手に背負ってた肩の荷が下りた気がした。でも、そんなふうにラスベガスに行ったり温泉巡りをしたりするようなお金、よくあったなと思うんだよね。
毎月の生活費はわたしてたけど、ものすごく多いわけじゃない。部長さんの給料ぐらいかな。「旅行に行くからお金ちょうだい」なんて言われたこともない。どうやら、普段はコツコツ節約して、旅行の費用を貯めてたんだよね。自分の洋服や子どもが小さい頃のズボンなんかもミシンで縫ってたんだよって、義妹が言ってた。ぼくの前ではボタン付けひとつやらなかったけど。
ダメなところを教えてもらおうと思ったのに、なんかちょっと違う話になっちゃった。「なんかあるだろ」って聞いても、「3人とも子どものころは、よくお母さんとケンカした」とか「お父さんの悪口は絶対に言わなかった」とか。だからそうじゃないんだって。まあ、これから時間をかけてじっくり聞いていこうと思います。
お墓のことも「さすが、スミちゃん」って感心したよ
スミちゃんは今はいちおう、二宮町(神奈川県)の自宅から10分ぐらいで行ける霊園に眠ってる。そのお墓も、いつの間にかスミちゃんが探してきた。ご近所のお寺に墓所があったんだけど、そこは毎年払うお金が高かったらしい。それだと子どもたちがかわいそうだからって、費用がかからない霊園を自分で見つけて買ったんだよね。
何年か前に、こんな質問をされたことがあった。
「いつも夢を見ているあなただから、お墓というか、死んだあとの未来にも夢があるの?」
ぼくは「あります」と答えた。どこかの山のてっぺんに、みんながにぎやかに集まって手を合わせてもらえるような、お墓という言葉を使わない何かを作るのが夢です、って。そしたらポツンと「最後の夢だけは、私はどかしといて」って言ってたんだよね。
どかしといてってどういうことかなと思ってたら、そういうことだった。現実的っていうか用意周到っていうか、さすがスミちゃんだなって、また感心しちゃった。
ぼくが作ろうとしている山の上の何かは、骨を置いたりするつもりはない。だからもしかしたら、子どもたちはスミちゃんのお墓にぼくの骨をいっしょに入れて、名前とかも書いちゃうかもしれない。それはそれで、好きなほうに来てくれればいいかな。
お墓はどうなるかわからないけど、いつか天国では会うかもしれない。そのときは、どうするかな。たぶん声はかけない。彼女の姿を見つけたら、10メートルぐらい離れたところからスミちゃんを指さして、ニッコリ笑って手を振る。彼女もきっと何も言わない。こっちを見て黙って微笑むんじゃないかな。「あっ、来たのね」って感じで。
言いたいことはたくさんあるんだよ。「ありがとう」だって、まだまだ言い足りない。スミちゃんも、いろいろ言いたいと思う。だけど、言葉にしないほうが伝わることってあるよね。そのときまでに、みんなからスミちゃんのことを教えてもらって、付き合いを深めておかなきゃ。そのほうが、たくさんのことを伝えられそうだから。
つくづく、この順番でよかった。逆だったら、スミちゃんのことを何も知らなかったぼくが、スミちゃんを知るチャンスがなかったわけだもんね。
萩本欽一(はぎもと・きんいち)
1941年、東京・下谷生まれ。高校卒業後に浅草の東洋劇場に入り、澄子さんと出会う。下積み時代を経て、66年に坂上二郎とコンビ「コント55号」を結成。たちまち時代の寵児となる。「コント55号」の活動がひと段落した75年春、ラジオ番組から生まれた「欽ドン」がテレビのレギュラー番組になり、「欽ちゃん人気」が一気に盛り上がる。そんな中、76年7月に記者会見で「結婚しています。子どももいます」と発表。引退も覚悟した上での会見だったが、メディアにも世間にもあたたかく受け止められて、その後もさらなる活躍が続く。80年代には『欽ちゃんのどこまでやるの!』『欽ドン!良い子悪い子普通の子」『欽ちゃんの週刊欽曜日』など、手がけたテレビ番組が軒並み高視聴率をたたき出して「視聴率100%男」と呼ばれた。2015年4月に駒澤大学仏教学部に入学。4年間の充実した学生生活を送ったのち、19年春に自主退学。20年8月、最愛の妻・澄子さんが享年82歳で逝去。2月6日(土)19時から、日本テレビ系で『第98回 欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』が放送される。今回は足掛け42年の番組の歴史の中で、初めての無観客形式となった。
取材・文/石原壮一郎(いしはら・そういちろう)
1963年三重県生まれ。コラムニスト。『大人養成講座』『大人力検定』など著書多数。2020年に出版された萩本欽一さんの最新刊『マヌケのすすめ』(ダイヤモンド社)の構成を担当した。
撮影/菅井淳子
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