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欽ちゃんが語る「今始まったスミちゃんとぼくの新しい物語」|妻を見送った萩本欽一が伝えたいこと(1)

 欽ちゃんこと萩本欽一さん、79歳。言わずと知れた笑いのレジェンドである。2020年8月、最愛の妻・澄子さんが、4年間にわたるがんとの戦いの末、静かに旅立った。享年82。欽ちゃんは「ぼくとスミちゃんとの物語は今も続いてるし、これからも続きます。半年前から、新しい章に入りました」と言う。誰にでも訪れる「最愛の人との別れ」。その大きな出来事と、どう向き合えばいいのか。欽ちゃんの言葉から、そのヒントをもらおう。(聞き手/石原壮一郎)

「ぼくの中ではスミちゃんは生きてます」

 スミちゃんとは、長年にわたって、とてもいいお付き合いをしてきました。半年ぐらい前にこの世からはいなくなってしまったけど、ぼくたちのお付き合いは終わったわけじゃありません。そもそも「お別れをした」という実感がない。

 だって、お葬式のときも「さようなら」とか「安らかに眠ってね」とか、そういう言葉は心の中でだって一度も言ってないからね。仏壇に手を合わせたこともないし、お線香だってあげてない。そんな、まるで死んだ人にするようなことはしません。だから、ぼくの中ではスミちゃんは生きてます。「今日はいい天気だね」なんて話しかけると、「そうね」なんて返事が聞こえてくる気がするもん。

 これから、3人の息子やまわりの人たちから、スミちゃんについて知らなかったことをたくさん教えてもらおうと思う。出会ってから60年ぐらいたつけど、まだまだ知らないことだらけなんだよね。新しい物語の始まりに、なんかワクワクしてる。意外な話を聞くたびに「スミちゃん、いいなー」って気持ちになってるから、ぼくが死ぬときには、スミちゃんのことを最高にかわいく思えてるんじゃないかな。

「笑いの仕事に全力で取り組んでほしい」

 萩本家は夫婦の関係も親子の関係も、世間一般で言うところの「普通」とは、だいぶ違ってる。スミちゃんは「男は好きな仕事に突っ走るのが一番。私と子どものことは気にしなくていいから」って、ぼくを放し飼いにしてくれた。おかげでぼくは、めったに家に帰らないまま、笑いのことだけを考えていられたし、たくさんの人気番組も作れた。

 今、つくづく思うのは、スミちゃんは「徹してる人だったな」ってこと。ぼくに気をつかって「仕事優先でいい」って言ってたわけじゃない。心の底から「笑いの仕事に全力で取り組んでほしい。あなたが楽しそうに生きていることが、私にとっての幸せ」と思っていて、そのスタンスを貫いたんだよね。

 子どもが小さい頃、家で子どもと遊んでいたら、「ぜんぜん楽しそうに見えない。無理していい父親の真似事なんかしなくていいから」って言われたこともある。病気がわかってからも、泊まっていこうと思ってのんびり座ってると、「もう終電よ。気をつかわなくていいから、東京に戻りなさい」って追い返そうとするんだよね。ぼくの家なのに。

 近くに住んでて面倒を見てくれてたスミちゃんの妹が、ちょっと前に教えてくれたんだけど、スミちゃんは入院するときにはまず最初に、お化粧道具が入った箱を準備してたらしい。スミちゃんに「とにかく、すぐ来て」って呼び出されて行ってみたら、「もうすぐあの人が来るから、眉だけでも描いて」って頼まれたこともあったんだって。

 そういえば昔から、スミちゃんは家の中でも常にお化粧をしていた。ぼくは「ずいぶんオシャレな人なんだな」って思ってたんだけど、義妹に「義兄さんに会うために決まってるでしょ」って言われちゃった。お酒も、ぼくが飲めないからなのか、ぼくの前では一度も飲んだことがない。でも、本当は好きなほうだった。もしかしたら、ぼくを早く追い返そうとしたのは、ひとりで飲みたかったからなのかな。

初めて出会った頃から、ずっと応援してもらってた

 亡くなる半年ぐらい前、家族みんなで集まったときに、息子が「お父さんのどこが好きだったの?」って尋ねた。そしたら「うーん」って考え込んで、「『好き』と思ったことはないわね」って言うから、ぼくが「じゃあ、なんで結婚してくれたんだよ」って問い詰めた。そしたら「ファンだったのよ。今もずっとファンよ」って言ってくれた。

 まいったね。最高にうれしい言葉だったし、最高にスミちゃんだった。妻というより、コメディアンをひとり預かってるっている感じだったのかな。考えてみたら、初めて出会った頃から、ずっと応援してもらってたんだよね。

 スミちゃんと出会ったのは、60年ぐらい前にぼくが浅草の東洋劇場に入ったとき。彼女は一番人気の踊り子で、新入りのぼくにとっては目を合わせるのも恐れ多い存在だった。何年かたった頃から、スミちゃんは「これからはテレビの時代だから」って、当時は高価だったテレビを買ってくれたり、大家さんと話をつけて3畳の部屋から4畳半の部屋に替えてくれたりした。「欽ちゃんを見てると、応援したくなるの」って言って。

 でも、ぼくがコント55号で有名になったら、踊り子をやめて浅草から姿を消しちゃった。「私とのことが誤解されて世間に伝わったら、欽ちゃんに迷惑がかかる」と思ったみたい。姿を消すことで、応援してくれたんだよね。

 知り合いをたどってどうにか探し出して、「お礼がしたい」って言ったんだけど、「そんなつもりで応援したわけじゃない」って取り合ってくれない。そのあと子どもができたら、またいなくなった。一度だけ電話があって「男の子が生まれたので名前をつけてください」って頼まれたけど、どこにいるかは教えてくれない。「こういう名前はどうかな」って言ったら「ありがとうございます。ご迷惑はおかけしませんから」って、それっきり。

 ぼくは困って、記者会見を開いて「じつはぼく、結婚してます。子どももいます」って発表しちゃった。それがスミちゃんへのプロポーズ。世間から非難されて、テレビの仕事が続けられなくなってもいいと思ってた。

 それからまた居場所を探して、あらためて結婚してくださいって頼んだ。スミちゃんは「芸能人の奥さんなんてなりたくない。あなたはそれで満足かもしれないけど、私にとってはいい迷惑よ」って嫌がってたけど、そこをなんとかって結婚してもらった。

「頼りになるお姉さん」と結婚したら「理想の奥さん」で「立派なお母さん」だった

 もちろん、責任を取ったとかそういうのじゃない。浅草時代から「結婚するならこの人がいい」って思ってた。最初からずっと「頼りになるお姉さん」で、結婚してみたら「理想の奥さん」が追加されたんだよね。そして、3人の息子たちにとっては、間違いなく「立派なお母さん」だった。それぞれいいヤツに育ったあいつらを見てると、よくわかる。

 この2年ぐらい、スミちゃんはぼくに、たくさんの「ありがとう」を言ってくれた。2年ぐらい前だったかな、骨折して入院してるスミちゃんを見舞いに行ったら、帰り際に「来てくれて、ありがとうね」って言葉が聞こえたの。

「うわー、スミちゃんが『ありがとう』って言ってくれた! 初めて聞いちゃった! 今日はうれしい日だな。バンザーイ!」

 すっかりはしゃいじゃって、病室で本当にバンザイしちゃった。

 スミちゃんも「こんなに喜んでくれるのか」と思ったのかな、次に行ったら「本当にありがとうね」って言ってくれた。「うわー、今日は『本当に』がついたよ。最高だなー!」って、またおおはしゃぎ。

 それから言葉が出なくなるまで、スミちゃんは、たくさん「ありがとう」を言ってくれたけど、ぼくはなかなか言えなかった。感謝しなきゃいけないのは、ぼくのほうなのに。だけど、いきなり「ありがとう」なんて言ったら、スミちゃんは「私、もう長くないのかしら」って思っちゃうかもしれない。だから、ついつい先延ばしにしてたんだよね。

目を潤ませて握り返してくれた手

 やっと言えたのは、亡くなる数日前だった。そのときはもう、スミちゃんは話しかけても返事はできない状態だった。意識があるかどうかもわからない。布団の中で手を握って、「スミちゃん、たいへんだったね」って言ったら、ギュッと握り返してきた。その次に、

「子どもたち、あいつらみんないい子だね。いい子に育ててくれて、ありがとうね」

 そう言ったら、何倍も強い力で握り返してきた。ぼくは家にほとんど帰らなかったから、スミちゃんがひとりで育てたんだよね。スミちゃんは自分では何も言わなかったけど、たいへんだったと思う。

 強い力で握り返しながら、スミちゃんは目を潤ませて首を横に振った。あれは、どういう意味だったんだろう。「いいのよ」なのか、「こちらこそ」なのか、「今ごろなに言ってんのよ」なのか……。全部の意味が入ってたかもしれない。ギリギリになっちゃったけど、ありがとうを言えてよかった。

 スミちゃんとぼくの新しい物語は、この先、どう展開していくのかな。たくさん話を聞いたところで、スミちゃんに「そこんところ、ホントはどうなの?」ってインタビューしてみたい。でも、聞いても答えは返ってこない。それがちょっと残念だよね。

萩本欽一(はぎもと・きんいち)

1941年、東京・下谷生まれ。高校卒業後に浅草の東洋劇場に入り、澄子さんと出会う。下積み時代を経て、66年に坂上二郎とコンビ「コント55号」を結成。たちまち時代の寵児となる。「コント55号」の活動がひと段落した75年春、ラジオ番組から生まれた「欽ドン」がテレビのレギュラー番組になり、「欽ちゃん人気」が一気に盛り上がる。そんな中、76年7月に記者会見で「結婚しています。子どももいます」と発表。引退も覚悟した上での会見だったが、メディアにも世間にもあたたかく受け止められて、その後もさらなる活躍が続く。80年代には『欽ちゃんのどこまでやるの!』『欽ドン!良い子悪い子普通の子」『欽ちゃんの週刊欽曜日』など、手がけたテレビ番組が軒並み高視聴率を叩き出して「視聴率100%男」と呼ばれた。2015年4月に駒澤大学仏教学部に入学。4年間の充実した学生生活を送ったのち、19年春に自主退学。20年8月、最愛の妻・澄子さんが享年82で逝去。2月3日(水)13時から『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に、前川清とともに出演。澄子さんの「死に支度」について語る。

取材・文/石原壮一郎(いしはら・そういちろう)

1963年三重県生まれ。コラムニスト。『大人養成講座』『大人力検定』など著書多数。2020年に出版された萩本欽一さんの最新刊『マヌケのすすめ』(ダイヤモンド社)の構成を担当した。

撮影/菅井淳子

●欽ちゃんの金言「もっとマヌケであれ!」。マヌケは苦しさを吹き飛ばしてくれる魔法の言葉

●53才の夫は死に向かう妻とどう接したか、悲しみからどう立ち直っていくか シリーズ「大切な家族との日々」

●7年のがん闘病を看取った妻、夫の息が止まった時に シリーズ「大切な家族との日々」

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