【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第10回 長岡花火」
写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによる、フォトエッセイ。
老老介護をしていた飯田さんの両親だったが、昨年、父が他界。母は一人暮らしが始まったと同時に、認知症を発症した。母をサポートしながらの生活や、母の様子をリアルタイムで綴ります。
* * *
夏の風物詩、『長岡花火』の撮影をした。ご縁あってこの数年、毎年カメラに収めている。
もう10年以上も前になるが、いっとき長岡に暮らしの場を持ったことがあった。
日本一とも言われる花火大会ということで、また、偶然、父の生まれ故郷も新潟ということもあり、かつて、父が叔父と連れ立って長岡へ来てくれて、花火観覧したことを思い出す。その時の私はちょうど、甲状腺の摘出手術を終えたばかりだったので、復活の花火『フェニックス』というプログラムに特に心を揺さぶられた。天から降るような花火のスケールに感動し、涙が溢れてきた記憶が蘇る。
父の初盆の今年、長岡の夜空に咲く光の花々を撮影しつつ、花火の灯りに照らし出された父の横顔を思い出していた。
長岡からは、勝浦で1人暮らしをする母に毎日電話を入れた。母の耳は日増しに遠くなり、電話での会話も難しくなりつつあった。
父は70代から難聴の兆しがあった。耳鼻咽喉科の医師だったので「これじゃあ紺屋の白袴だ」と言って早々に補聴器をつけていた。開業医としても現役だったし、亡くなる直前まで補聴器の世話になっていたので、会話のコミュニケーションはできた。
しかし、母の場合、90歳を前にしての難聴。年齢的には自然なことだが、いざ補聴器を使うとなると、新しい器具への適応が難しい。
「変な音ばかり聞こえて気持ち悪くて…」と言って簡易なものをテスト的に購入したが結局使わないままだ。自分の言いたいことを話すことはできても、話し相手の言葉をきちんと聞きにくい。
単語を間違えて解釈したりするので、私は大切なことはホワイトボートで筆談にしてみたり、まとめて文章にして渡している。
すると母は「そこまで難聴じゃない!聴こえてる」とも言う。
数年前には、難聴の父を隣に「私の耳はまだよく聞こえている。あなたもこの本を読んでおきなさい」と、難聴にならないための本を渡されたこともあった。母は私が知る限り、医者にかかったことがなかった。更年期などの不調は訴えていたが、それも全て自己流の治し方で切り抜けて来た。
姑とも同居し、徘徊する認知症の祖母に関する苦い体験もあるので「私は認知症だけにはなりたくないし、子供たちには絶対世話になりたくない」とよく話していた。
が、しかし、自分の意思とは関係なく誰にでも老いはやってくる。
だから、「絶対」という言葉はあり得ない。そして、うちの母の場合、友人と出かけるなどのグループ行動が苦手なタイプだったので、今となっては、私という身内だけが最後の頼りになってしまった。
「私は姑みたいに徘徊はしないし、わがままも言ってない」と、介護者として苦労していたはずの母は言う。
母は、このところ、しきりに丸の内のOL時代の話をするようになった。その話をしている時の瞳は輝く。それは彼女が一番輝いていた時代だったに違いない。毎月1度のケアマネジャーからのヒアリングの時でも丸の内時代の話に花が咲く。認知症になっても前向きで、自己肯定的でいられるのは、輝ける時代が核にあるからなのかもしれない。
ひと月1回のかかりつけ医の診察がある。そこで、医師に促され「認知症を治すというより、これ以上進まないように薬を処方します。そこでどんな薬が適切かを調べます」と、大きな病院での検査が決まった。
病院嫌いであった母は「どうしても行かなくてはならないの?」と、気乗りしなかった。
実は父が勝浦へ引っ越す際に風邪をこじらせ緊急入院したのがその病院で、母も待合室で風邪がうつり寝込んでしまった。そんなネガティブな印象があったから余計だった。以来母は「病院に行くと病気になる」とさらに病院嫌いになった。そんな母をなだめ、当日の朝、検査に向かった。
病院に縁のなかった母の目に映る光景は、暗い廊下を車椅子やストレッチャーが行き交う様子。母と同じ歳くらいのお婆さんだろうか、もう歩くこともできず、その傍らには杖をついたおじいさんが付き添っていた。会話も多分できない状態のようで、お互いに目だけで会話をしていた。
「若い頃は、2人ともきっと美男美女だったんじゃない?お2人にはそんな面影がある…」と母。病院待合室の人間模様を観察しているようだった。
隣の席には息子に車椅子を押されて来院してきたお婆さんが腰掛けた。
「山の向こうの集落から月に1度バスに乗ってきてるんですよ。ここまで1時間半。」やれやれとばかりに、折れ曲がった腰をさする。
長い待ち時間の末、血液検査、MRI、CT、心電図、脳波などの検査と医師からの問診が行われ、終わったのは正午すぎだった。検査と待ち時間に疲れ果てた様子だった。
病院には、難聴と認知症があるので、私の同席が必要だ。そんな時、自分自身の老後を想像する。独り身でいることの不便さは、今は感じなくとも、やがてやってくるその日のために、策をどうすべきか…と。
弟も甥っ子も英国に暮らしているし、親戚とも疎遠な我が家。友人は沢山いても、法的には、いざという時には親族以外は有効ではない。老いてしまってから「さあ、どうする」では、時すでに遅し、のような気もしてきた。
母の検査を終え、いよいよのやってきた盛夏。父の新盆の今年、台風の影響もあり、尋常でない暑さが勝浦でも連日続いた。千倉のお寺まで母を車に乗せ、1時間半。陽が昇らない午前のうちにお参りを済ませた。千倉の海は南向きだけあり、勝浦より青さが増していた。
お参りを済ませた帰路、母は「裕子にばかり頼らないで、早く施設に入った方がいい」お寺で拝んだ時、パパがそう言っているような気がして…と言いだした。
(つづく)
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。Gardenstudio.jp(https://www.facebook.com/gardenstudiojp/?pnref=lhc)代表。
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