【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第43回 母は施設で年越し」
写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。父亡き後に認知症を発症した母との日々を美しい写真とともに綴ります。
家族に迎えた子犬とのトラブルで、急遽介護施設への入居が決まった母。年末年始も、そのまま施設で過ごすこととなったため、飯田さんは愛犬を伴い新潟へでかけました。
もう一つの故郷、新潟に滞在した年末年始
久しぶりの新潟。雪はまだ少なく比較的暖かな日が続いた年末年始だった。昨年夏に母が施設に入所してしばらくは、母ロス的な心境であったが、時が経つにつれ、少しずつ自分らしい時間を取り戻してきた。
もともと亡き父の実家や生まれは新潟なのだが、父は5歳の時に家族で上京してきたので、私が父から新潟の話を聞いた記憶はほぼなかった。それが不思議なもので、新潟の人と出会い、遠距離ではあれど、長いご縁で繋がっている。自分のDNAに刻まれた新潟の記憶のようなものが蘇るのか「私に繋がる祖先の人たちは、こんな豪雪の地で知恵を働かせて生きてきたのだなあ」と感嘆する気持ちとともに、新潟を自分の故郷に感じる意識が、今では芽生えてきたのだ。
愛犬のハルにとっては、初めての雪。犬は本当に、喜び庭を駆け巡るものだ。ハルは長野の山の生まれだけあって新潟でも雪をなんのそのと、本領を発揮していた。私もその姿を見ると元気になる。
そんな雪中の日々に、突如携帯の警報アラームがけたたましく鳴り、その数秒後に大きな揺れがきた。
2004年に起きた新潟県中越地震の時は、弥彦山で佐渡を撮影した後に体験したのだが、その時のことが咄嗟にフラッシュバックしてきた。 慌てて、庭に脱出すると下の集落から警報とアナウンスが聞こえた。やがて揺れが収まったので、防災ニュースをつけると震源地が能登半島であることを知った。
母はどうしているうだろうと頭をよぎったが、今は、外房の施設にいてくれるので安心だ。本当に良かった思う。と、同時に能登には、母のように施設に入居している高齢者は大勢いるだろうこと、そして、そこで働く介護職の人たちは、こういった災害時には、自分の家や家族の心配より先に施設の高齢者を守ることに必死なのだろうということを想像して心が痛んだ。
新潟からの帰路、群馬の川場村に寄り、どんど焼きの撮影をした。赤い炎の中で群馬らしくダルマが燃えてゆく。精進潔斎。悪疫が退散してこれ以上大きな災害がない平穏な世の中になりますように、と祈念しつつシャッターを押す。
施設で過ごす母のこと
新潟へ出発する前のことだ。久しぶりにガラス越しの面会に行った時の母の表情は、これまでにはない落ち着きを見せていた。以前、ケアマネさんから「施設に入ることを拒んでいても、月日がある程度経つと落ち着いてくる」という話を聞いていたが、こういうことなのだろう、と思った。
母に「年末年始、家に戻りたい?」と聞くと、「ここにいた方が安心だわ。勝浦の家に1人でいると怖いから」と言う。
そのひと月ほど前に、勝浦の同じ地区に暮らす友人のIさんのご両親が、母と同じ施設に入所された。Iさんのお母様と母はとても気が合ったらしく仲良く窓辺でおしゃべりの花を咲かせているとの話も聞いていた。
「施設入所が初めてのIさんに、飯田さん(母のこと)が色々と教えてお世話係をやってくれるからとても助かっています」とケアマネさんからの話も聞いた。母は若い頃長く会社で働いていて、「新入社員の教育係をやっていたの」と、よく口にしていたことを思い出した。Iさんと過ごすことは、きっと母にとっても良きことだ。
「主人が作った勝浦の家は夜に真っ暗になって怖いからここに来たのです」と母はIさんに話しているらしい。話題には「娘」のムの字も出てこないそうで、母の話を聞いている人には、「これまでずっと、あたかも老人1人で暮らしていた」という話になっているのだ。そう聞くとなんだか虚しい気分にもなる。
面会の時に、偶然、お庭のお散歩で介助スタッフとご一緒のIさんが私の脇を通った。その時、すかさず母は「あ、お友達だわ」と手を振っていた。Iさんは、母と同じく編み物が得意という話を伺ったので、ケアマネさんに相談して、久しぶりに毛糸を差し入れした。
介護を担うのは女性?
この数年、同じくらいの年齢の友人たちの親御さんが、在宅から施設へ入所したという話をよく聞くようになった。
九州の実家に頻繁に介護帰省する友人は、彼女の姉が1人で実母と叔母の介護をしているという。友人は姉からの要請に応えて姉の手を軽くしているのだと話してくれた。やはり姉妹がいる人は羨ましい。
介護スタッフに男性は多いのに、こと身内となると「男性は当てにならない」と、友人らは口を揃える。
子育てを一緒にする“育メン”という意識が、当たり前になるまでに時間がかかったように、介護と男性の在り方も少しずつ変化していくのだろうか。もちろん、今でも時々病院へ行くと、高齢の親御さんと思しき人の車椅子を押している男性を見かけることもある。家庭の事情はそれぞれにあるので、「介護に男性は当てにならない」などと一概には言えないかもしれないが。
そんな時、弟から「東京で仕事があるから母の面会に行き、そのままトンボ帰りしますが」というメッセージが来た。 「了解」と返信をした途端電話が鳴った。施設からだった。
「弟さんから面会の要望が来ていたのですが、実はコロナが発生して無理になってしまいまして、至急ご連絡いただけますか?」
弟に伝えるとがっかりした様子だったが、「でも、しょうがないね」とのこと。 コロナは5類となり、以前のような緊迫感は無くなったにせよ、やはり世の中からは消えたわけではない。特に高齢者の施設ではまだ油断はできない状況なのだ。
「母は元気にしていますか?」と電話をくれた施設の人に尋ねると、「ああ、飯田さんはお元気ですよ〜」と、その声色からは「飯田さんはいつも明るく、よく食べ、健康で、心配のいらない人ですよ」というニュアンスが感じられて安心した。
「そろそろ退所の日にちを確定いただけますか?」という話も施設からあった。 母がお世話になっている老人福祉施設(老健)には、永遠にお世話になることはできないのだ。
3月の初めには母は94歳になる。その時に家でお祝いができるよう準備をしよう。
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。 (公社)日本写真家協会会員1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は千葉県勝浦市で母と犬との暮らし。仕事で国内外を旅し雑誌メディアに掲載。好きなフィールドは南太平洋。最近の趣味はガーデン作り。また、世田谷区と長く友好関係を持つ群馬県川場村の撮影も長く続けている。写真展に「海からの便りII」Nikon The garelly、など多数。
写真集に「海からの便りII」「長崎の教会」『Bula Fiji」など。