85才、一人暮らし。ああ、快適なり【第28回 妄想のタイムラグ】
齢、85。数年前からは、自ら望み、妻、子供との同居をやめ、一人で暮らしているという、伝説の編集者にして、ジャーナリストの矢崎泰久さん。
1965年に創刊し、才能溢れる文化人、著名人などがを次々と起用して旋風を巻き起こした雑誌『話の特集』の編集長を30年にわたり務めた経歴の持ち主で、テレビやラジオでもプロデューサーとして手腕を発揮、世に問題を提起し続けている。
矢崎氏が、歳を重ねた今、あえて一人暮らしを始めた理由やそのライフスタイル、人生観などを連載で寄稿していただき、シリーズで連載している。
今回のテーマは「妄想」だ。自ら、「妄想大好き人間」と語る矢崎氏。さて、矢崎氏の妄想とは如何に?と
悠々自適独居生活の極意ここにあり。
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妄想の虜になることがある
【妄想】を辞書で引いてみる。
(1) みだりなおもい。正しくない想念。(2)[心]根拠のない主観的な想像や信念。病的原因によって起こり、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない。徒然草「所願皆妄想なり」別に「誇大妄想」「被害妄想」「関係妄想」など。(出典/広辞苑より)
ま、妄想は余り歓迎されていない。ともすると病人扱いを受けかねない。ところが困ったことに、私は妄想が大好きなタイプなのだ。妄想が楽しくてならないのである。
私の妄想は二種類ある。日常的なものと、夢幻的なものに分かれる。日常的なものの主体は現実に近い空想であり、夢幻的なものは正しくユメマボロシの類いである。この違いは実に大きい。
1960年代に封切られたアメリカ映画『虹を掴む男』(邦題)は日常的な妄想がコメディ・タッチに描かれている。主演のダニー・ケイが演じるウォルター・ミティという中年男は、現実生活から突然妄想世界に旅立ってしまう。原題は確か『The Secret Life of Walter Mitty 』だったように記憶している。
彼にとっての妄想は、秘密の生活であり、本人だけが異次元の世界にタイム・トリップする。当然、二重生活が展開する。映画は現実生活と妄想生活を往ったり来たりする奇妙な男の日常を同時に紹介する。ややこしく目まぐるしいが、これが抱腹絶倒のコメディになっている。
観客は、ウォルター・ミティによって右往左往させられる家族や友人のうろたえる様や、自由気儘に動き回る妄想の世界を主人公にかぶせて笑わせてくれる。すべて奇想天外だから一種の夢物語なのだが、人間の考え得る限りの望みを満たしてくれる。
私も時として、妄想の虜になることがある。ウォルター・ミティにはとうて及ばないが、ほとんど一人で居る時に起きる妄想だから、他人に迷惑をかける心配はない。
私は様々な人物に成りすましたり、時には百獣の王ライオンに変身したりする。何にでもなれるし、どんなことも可能なのだ。妄想から戻ると、身体が軽くなって、楽しい時間を過ごした満足感によって解放される。
ユメマボロシの世界で笑ったり、泣いたり・・・
もう一つは、夢幻世界の妄想である。大抵睡眠中に起こるから、私はもっぱら傍観者の位置にある。しかし、肉体は支配されているから、何かと活躍しなくてはならない。忙しい。
若返った私は、濃密な恋をする。プラトニックに悩む場合もあるが、ほとんど性的な行為に耽ることが多い。汗も匂いも現実そのもの。笑ったり、泣いたり、悶えたり、呻いたり、果てたりもする。戻ると結構疲労している。
リアリティが強かった時は、醒めてもしばらくは朦朧としている。もう一度、ユメマボロシの世界での出来事を思い返したりもするのだ。むろん、私だけに起きる現象ではないだろうが、人によって千差万別があるに違いない。一種の快楽でもある。
望んで起こる現象ではないし、睡眠中にしか得られないから、当然のことに支離滅裂である。だが楽しめることは間違いない。
ひょっとして、私はクレイジーではないかと思ったりもする。自分の異常さに恐怖さえ抱くことがある。夢幻世界の私は、若い時もあり、老いさらばえている時もある。その時によって、活力も違うし、醒めた時の印象も違う。つくづく人間とは面白い生き物だと痛感してしまう。
私は妄想を悪いとは思わないし、辞書にいあるようなマイナス・イメージとしてばかりに捉えていない。むしろ常日頃より、妄想を心のどこかで求めている気配すらある。
所詮、文学は妄想の産物のような気がしてならない。脳によって齏(もたら)されるあらゆる想像は、妄想によって生じる気質のようにも思えてくる。
妄想を否定したり、嫌ったりすることは、非人間的かつ自由への弾圧ではないだろうか。
デジャヴュ(既視感)という言葉がある。実際には見てないものを、既に知っている不思議な現象である。長い人生を送って来ると、タイムラグが生じて、それにいろいろな事象が混ざり合って、特別な体験をしたり、新しい時空を遊泳したりすることが可能になるのではあるまいか。
夢幻とか、永遠とかの概念もそこに繋がっているような気がしてくる。是非、チャレンジしてください。
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。