連載

シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<40>【連載 エッセイ】

 長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。

 桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。

 シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。

 さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!

【前回までのあらすじ】

 ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」を訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。

 飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着。

 神聖なる大聖堂では、ジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合い、ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上。ついに念願を果たすのだった。

 翌日は、ペンブロークへ。ペンブローク城内巡りを堪能し、一夜を過ごした後、来た道を遡り、最初に宿泊した街カーディフへ再び到着。

 カーディフでは、「カーディフシティホール」を訪れ、新著の資料として、置かれているウェールズ史の英雄11体の像を撮影する目的がある。許可を得て撮影も無事終了し、カーディフ城の見学へ。偶然見つけたパブで、最高の黒ビールと料理にも出合い大満足。その後、なかなか見つからなかった、リーキのバッチをついに発見、料理研究家の妻のへの土産として購入できた。

→前回(39回)の記事を読む

* * *

X 英雄たちと黒ビール(7)

(2017/4/13 カーディフ)

●初のタクシー

 私はいったん「ジュリーズ・イン」(宿泊ホテル)に戻った。部屋はきれいに清掃されている。ただ、ベッドの枕元に置いたチップの50ペンスコインはそのままだった。

 あれっ、ルーム掃除の人が持っていくのを忘れたのかな。安すぎる、1ポンドじゃなきゃダメと怒って持っていかなかったのか。それとも、ホテルのこうした慣例が変わってイギリスでもチップを受けとらないようになったのか。それなら結構なことだ。そもそも日本じゃあ、チップなんていう悪癖はないからな、と本当のことはわからないまま、さっき買ったリーキの包みを部屋において30分後に私はまたホテルを出た。

 時刻は午後3時少し前。これからウォーターフロント地区のウェールズ議会に向かうのだ。ここで私はウェールズに来てから初めてタクシーに乗ることにした。もちろんバスは出ている。さっき路線をホテルの部屋で確認した。しかし、もうこれで訪れるところは最後だ。だったらタクシーで行こう。まだウェールズに来てから乗ってないし。そう決めたのだった。

 タクシーステーションはホテルの目の前にあった。全く待つことなくそこで客を待っていた1台に乗り込む。

 タクシーはロンドンのような、あの有名なブラックキャブではなくごく普通のセダンで、ドライバーはインド人である。それが私にミニキャブを思い出させ、懐かしくなった。ロンドンではミニキャブという地域のタクシーによく乗った。ブラックキャブより料金がぐんと安く、電話で呼ぶと家まで来てくれる。普通のセダンを使った市民の足でもあるミニキャブだが、このタクシーの運転手が大抵インド人だった。たぶん、仕事による人々の棲み分けができているのだろう。

 あるとき、インド人のミニキャブドライバーに聞いてみたとこがある。メインの仕事は別に持っていて、これは副業なのだと。ネットワークがあって、そのときに空いている者が客に呼ばれていくのだと。なるほど、副業だから安い料金を設定でき、またそれだからこそお呼びがかかる。うまく考えられたロンドンのミニキャブだった。

 でも、カーディフのタクシードライバーがロンドンのミニキャブのように、もっぱらインド人であるかどうかはわからない。私が今乗っているタクシーの運転手がたまたまインド人、ということかもしれない。地域が変われば世の中の仕組みも変わるのだから。

●最後の目的地ウェールズ議会へ

 ところで私が向かっているウォーターフロント地区は市の南の、カーディフ湾に面した地域である。

 19世紀、ここはウェールズの石炭や鉄鋼を積み込むヨーロッパでも屈指の施設を擁した港湾として栄えたエリアだ。だがその後、エネルギーが石油へとシフトしていった結果、だんだん積出港としての勢いは衰えていき、町の中心はカーディフ城のある北部へと移っていった。

 しかし、現在では再びこの地区にスポットが当てられおり、埋め立てなど大規模な再開発が推進され、商業やレジャー産業の、あるいは行政関連の斬新なデザインの建築物が次々と誕生している。私の旅の最後の目的地であるウェールズ議会(National Assembly for Wales)、つまり日本でいうなら国会議事堂に相当する斬新なデザインの建物は、そんな先端ウォーターフロントのシンボルともいえる。

 議会の建物、つまり議事堂はウェールズ語でセネズ(senedd、英語のsenate=議会にあたる)と呼ばれ、これは2006年3月1日、すなわちウェールズの守護聖人デイヴィッドを記念した日である「セント・デイヴィッズ・デイ」に、エリザべス2世女王の列席のもと、正式にオープンしたものだ。

 それ以前に議会として使われていたTy Hywel(ティヒィウェル=ハウェルの家という意味)と呼ばれる建物は、この新しいセネズに隣接していて、こちらも引き続き議会の施設として使われている。

 ちなみにウェールズの議会は小選挙区40名、比例代表区20名の合計60人の議員より構成され、任期は5年である。首相はFirst Ministerと呼ばれ、日本語では主席大臣とも訳される。

 私が4年前に永田町の英国大使館で写真にご一緒させていただいエドウィナ・ハート経済・科学・運輸担当大臣は2016年5月まで大臣の職におられた方であり、ウェールズの人にとっては馴染みのある女性である。

●議会を守るアサルトライフル

 チップを入れて7ポンド払い、タクシーを降りる。カーディフ湾が目の前に広がっている。そしてそこにセネズはある。

 人々に開かれた議会を表現するため、解放感と透明感をコンセプトに造られたという。カモメの鳴き声を背に、私はその超モダンな建物を見学するため、入り口ドアから1歩中に入った。しかし、まずそこで待っていたのは、空港もここには及ばないと思わせるほどの、厳重なセキュリティチェックだった。

 身に着けている金属類はすべてトレイの上に載せられ、両手を挙げてX線チェックのゲートをくぐる。加えて体中をタッチされる。その任務を遂行している検査官の後ろには、黒く鈍く光る重そうなアサルトライフルをしっかり両手に抱えた警護要員が目を光らせ配置についている。私はチェックを終えていよいよ建物の中に入る。武器を持った警護要員はそこにもいる。

 私は横目で、しかし、しっかりとアサルトライフルを見る。こういうものは平和日本ではまず普通にお目にかかれない。

 あの武器には5.56ミリNATO弾がえらい数込められているんだなあ、あんな銃でドドドッとやられたら、体はバラバラだなあと、軍隊用自動小銃の大きさ、凄さ、必殺感に気が飲まれてしまった。

 しかし、思う。こういうものを見て驚いていてはいけないのだと。見ることに慣れておくことが必要な時代に今我々は生きているのだと。

 結局のところ、理不尽な暴力を排除できる現実の力があってこそ平和は維持できるのである。もちろん、こんなものを使わなくてもすむのなら、それが一番いい。だが世界は人々の崇高な良心だけではどうにもならない悪意の時代にとうに入ってしまった。ウェールズの人々のよりよき明日を決めるための議会を、テロリストや破壊主義者たちから守るために銃がある。それは現代の選択である。

 私はセネズの1階エントランスホールにある階段を上って2階にあがる。2階は面白い構造物になっている。杉材を張った天井から柱のようなものが伸びてきて、2階フロア真ん中の大きな穴を通って1階に降りている。つまり2階から1階まで突き抜けている大きなキノコが生えているとでも例えたらいいのか。キノコの傘にあたるのが2階の杉材の天井であり、キノコの茎が天井から降りて一階まで伸びている杉材の太い柱。何だかとても面白い。

 たぶん、杉はウェールズの山々を象徴しているのではないかと思う。私はその、杉材の太い柱が下に伸びている2階フロアの大きな穴を覗き込む。そこからは扇状に並んだ椅子が見えた。すなわち、1階は大議場で椅子は議員たちの席だった。ただそこには誰もいなかったので今日は議会開催日ではないのだろう。

●本を買い、夕食を買う最後の夕方

 セネズにはこの2階の穴から見た大議場のほかに、各種委員会用の中小規模のルームがある。私はそれらを一通り見た後、2階フロアの奥にあるカフェで休むことにした。カプチーノを飲みながらこれまで撮った写真を日本に送る作業をしている。

 ここにもフリーWi-Fiはある。静かである。

 さっきまでやかましいフランスの中学生の一団がいたが、もう出て行った。やれやれだ。そろそろ5時、ここも閉まる。私は立ち上がり階段を下り、来る時、厳重にチェックされた玄関からセネズの外に出た。

 そのままセネズの裏にあるウェールズ・ミレニアム・センターの前を通り広い通りに出てタクシーを捕まえる。「テイク ミー トゥ ジュリーズ・イン」。タクシーは走り出す。ドライバーは黒人だった。どうやらカーディフではインド人専用の職業ではないのかもしれない。

 ところが、停まったのが「パーク・イン」の前だった。「ジュリーズ・イン」と言ったのに。やれやれ。いくら私の英語が下手でも、ジュリーズをパークと聞き違えるはずがない。こいつの思い込みである。

 でもここでいいや。買うものもあるし、と私は降りて歩くことにした。

 地図で見ると、あの美味しいブレインズ・ブラックとコッド・アンド・チップスを頂いたパブ「Duke of Wellington」をカーディフ中央駅方向に向かって少し行ったところに本屋がある。たいして遠くはない。私はウェールズ初日に泊まったマリオットホテル前の道を抜けながら歩みを早める。 書店「Waterstones」は簡単に見つかった。

 ここはイギリスを代表する大きな書店チェーンの1店で、さすがに中は広くいろいろな本が置いてある。でも私の探すものは決まっている。

 私は1階フロアのウェールズ史関係のコーナーをすぐに見つける。何冊か手に取ってパラパラとめくりながら、2冊買うことに決めた。

 1つは”The Little Book of Wales”というタイトルの、ウェールズの英雄や国土、言語、詩人や文学者、スポーツ、料理のことを簡素にまとめた、また小話類を集めた楽しい本。こういうのは何かを書くときの種本になる。そして2冊目はウェールズの教会や屋敷、城を網羅した歴史辞書のような本、”Wales-Churches, Houses, Castles”で、合計28ポンド98ペンス。これが私自身へのお土産である。

 2冊の本をショルダーバッグに詰め、「Waterstones」を出て「ジュリーズ・イン」へと歩き出す。何かものすごい満足感に包まれているのを感じる。

 町の風景が、人々がゆっくりと流れていく。ほどなくショッピングモールのようなところに入った。化粧品やブティックなどのテナントが並んでにぎわっているモールの間に、マークス&スペンサー(M&S)がある。よし、このスーパーで夕食を買おう。

 ウェールズ最後の夜をホテルの部屋で、ちょっと好きなものを食べて、ビールをたくさん飲んで、BBCウェールズ見て過ごそう。豪華そうでみみっちいディナーだが、そもそも一人旅なんてこんなもんだ。何でもいいのである。十分に楽しんだ旅だったのだから。

 私はハム、チーズ、ミックス野菜のサラダ、そしてブラウンブレッドの卵とビーフのサンドイッチと、エビアン、ベルギーの見たこともない銘柄のラガーを2缶買うと、まだまだ昼のように明るい夕方の繁華街のど真ん中をM&Sのビニールのショッピング袋を振り振り、ホテルへ戻っていった。

→つづき(第41回)を読む

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桜井俊彰

桜井俊彰(さくらいとしあき)

1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。

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