84才、一人暮らし。ああ、快適なり「第10回 遊び」
才能溢れる文化人、著名人を次々と起用し、ジャーナリズム界に旋風を巻き起こした雑誌『話の特集』。この雑誌の編集長を、創刊から30年にわたり務めた矢崎泰久氏は、雑誌のみならず、映画、テレビ、ラジオのプロデューサーとしても手腕を発揮、世に問題を提起し続ける伝説の人でもある。
齢、84。歳を重ねてなお、そのスピリッツは健在。執筆、講演活動を精力的に続けている。ここ数年は、自ら望み、一人で住まう。
そのライフスタイル、人生観などを矢崎氏に寄稿していただき、シリーズ連載でお伝えする。
今回のテーマは、「遊び」。それは、矢崎氏の人生にとって欠かせないテーマ。さて、矢崎氏の遊びとは…。
悠々自適独居生活の極意ここにあり。
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座右の銘は「遊びをせむやと生まれけむ」
むかし、町内にはご隠居さんがいて、子供たちの相手をしてくれた。
したがって爺さんは、遊び相手でもあった。歴史的にも人気のあった好々爺(こうこうや)は、良寛(りょうかん)さんと一休和尚(いっきゅうおしょう)だった。
この二人は共に僧侶だったが、室町と江戸だから大部時代は離れている。しかし、共通点が沢山あった。
子供たちに、遊びをとことん教えたのである。
それも、人が生まれて、何より大切なことは遊びだという思想だ。勉強せよとか、親の言うこと聞けとか、礼儀をわきまえろとか、戦(いくさ)に備えよとか、耳ざわりの悪いことは一切言わない。
伝え聞いたところによると、絶対に子供を叱らなかったという。
遊べ、遊べともっぱら遊びを奨励し、楽しい本を読んでくれたばかりか、いろいろな道具を使って、陽が暮れるまで境内や原っぱで、子供たちの相手をしてくれたという。
今どきの爺さんときたら、子供たちとのコミュニケーションなどほとんどない。
これは親たちにも責任はあるが、今や爺さんは厄介者になり果てている。
しかも、子供たちにはスケジュールがいっぱいあって、遊んでる暇などないらしい。つくづく時代は変ったと痛感するばかりだ。
私が「遊びをせむとや生れけむ」という言葉を知ったのは、良寛さんの絵本からだったが、子供心にズシンと落ちた。
以来、84才の今日まで、私にとって座右(ざゆう)の銘(めい)ともなっている。
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)なるものが原点であって、正確に記すと、なかなか深い意味(あじわい)を持っている。
「遊びをせむとや生れけむ 戯(たわぶ)れせむとや生れけむ 遊ぶ子供の声聞けば我が身さへこそゆるがれる」
人の人生は遊ぶために存在すると定義されているのである。
それなのに、いつの間にか、私たちの社会は、遊びをともすると蔑視するようになる。遊び人は悪人同然と思われ、遊びは二の次、三の次の扱いを受けるようになった。
私はこれがずっと気に入らなかった。
「仕事が忙しいから遊びに行けない」
平然とそんなセリフを口にする友人に私はいつもうんざりした。
老いてわかったことだが、私が遊び優先の生き方をしていたおかげで、いまだに退屈ということを知らない。一人で居ても、何かしら楽しいことを思いつき、遊びに耽ることがある。
遊びほど人を豊かにしてくれることは、他にないだろう。私はそう確信している。
遊びの種類は、それこそ数え切れないほど沢山ある。少人数でも大人数でも、遊びに事欠くことはない。言ってみれば、地球は遊びの宝庫なのだ。
遊び心を忘れずに30年雑誌を作り続けた
私はかつて30年間、雑誌作りをしてきた。しかし、いわゆる職業としてではなく、生業(なりわい)と呼べるようなものでもなかった。
若い頃、和田誠という天才アーティストにめぐり会い、「楽しい雑誌を作ろう」と意気投合した。二人が納得できる雑誌とは何か。つまり、読者は私たちだけでいいという、遊びの精神だった。
1965年に『話の特集』創刊号を発行した。3号雑誌ではなく、30年間は作り続けようと約束したのだった。
自分たちが読みたい作品、見たい写真や絵、笑い転げてしまうような会話、楽しませてくれるもの、面白くてならないもの、そしてふとした眞理(ホント)。
どれもこれも、和田さんと私にとって珠玉のようなものをひたすら追い求め、一冊の雑誌にギュッと詰め込んだのである。
これが原点だった。そして、多くのクリエーターから賛同を得て、やがて読者に受け入れられるに至った。それでも、初心は変ることはなかった。二人にとっての高度な遊びをひたすら追及し続けたのだ。やがていろいろな人が集まってきた。
むろん失敗も挫折しそうなこともしばしばあった。しかし、これは私たちが求めた遊びなんだという自覚が、それを支えてくれた。
遊びは変化する。一冊の雑誌から、別の遊びが誕生する。和田さんも私も、枠の中に定着していたわけではなかった。そこから形の変えた遊びが派生した。そして、いろいろな分野にそれは波及して行った。嬉しかった。
誰にでも子供の時代はある。遊びだけが支配していた期間があったはずである。それを思い出してみるならば、肉体の衰えなどどうでもよくなってくる。
老いてこそ、子供に還る。童心が覚えている楽しみを取り戻すことで、私の現在は満たされるように思えてならない。
「遊びをせむとや生れけむ」という言葉を是非噛みしめて欲しい。
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。