65才の人気YouTuber、Mimiさんが明かす波乱の人生「母の介護で学んだ、人が老いていく現実と最期の迎え方」
60代一人暮らしのライフスタイルを飾ることなく動画を配信し続け、幅広い世代から支持を得ているYouTuberのMimiさん。人気インフルエンサーとして輝かしい活動をしているが、かつて「人生のどん底を経験した」過去も。YouTuberになる以前の波乱の人生に迫ります。【Vol.2/全3回】
教えてくれた人
Mimiさん/1960年生まれ。61才でYouTubeチャンネル『Mimi‘s Life』を開設(YouTube)。チャンネル登録者数は8万1800人超、インスタグラムのフォロワー数は3万8000人超(インスタ)。毎週金曜日に動画を投稿。著書に『60代ひとり暮らし 明るく楽しく生きる術。』『60代のおしゃれの見直し 今を楽しむ服を着て』(ともに主婦と生活社)、『Mimiさんの何歳でも自分を楽しむ手作り服』(ブティック社)などがある。
人生どん底を味わった40代後半、離婚そして介護のこと
「みなさんこんにちは~。今日はユニクロCの購入品の紹介とそのコーデをやっていきたいと思います」
プチプラファッションのコーディネートを披露する動画人気のYouTube『Mimi’s Life』。優しい声色でゆっくりと視聴者に語りかけるMimiさんは今年65才。61才で初めたYouTubeでブレイクし、ファッションモデルや講演会を行うなど、今注目のシニアインフルエンサーだ。
これまでの人生を振り返ってみると――。
――YouTuberになる前での人生を振り返り、転機になったことがあれば教えてください。
「結婚と離婚、海外生活。リストラ、親の介護と、さまざまな転機はありました」
「私が19才のときに両親は離婚していて、私は母と暮らしていました。ひとり暮らしの父は心筋梗塞になって。最初は回復したのですが、今度は脳梗塞を起こして介護が必要になり施設に入居しました。
当時、父は59才でした。父のときは介護らしい介護ではなく、施設に面会に行って洗濯物など身の回りのお世話をしていました。施設でまた脳梗塞を起こし病院に入院し、そのまま息を引き取りました。私は32才、父は62才。これ厄年?って…。
私自身は、27才のときに結婚して31才のときに離婚しました。
父を看取って、離婚をして。母はまだ元気でしたから、私ひとりの人生、やりたいことをやろう!と思って、アメリカで暮らすことにしました。
ずっと海外で暮らしてみたかったんです。小学生の頃からアメリカに対する憧れを抱いていました。あの頃、フロリダに初めてディズニーワールドができて、アメリカ人は大きな家に住んで、大きな車に乗って、プールがあって、大きい冷蔵庫においしいものが一杯詰まっている、そんなイメージで(笑い)。
離婚して自由になったのだから、よし、アメリカで暮らしてみよう!と。渡米して家を探して飲食業で5年ほど働きました。そんなとき、高知でひとり暮らしをしていた母が骨折をして、そのタイミングで帰国しました。38才のときでしたね」
38才で再び地元高知に戻り、49才でリストラを経験
――高知に戻られてからは、どんな生活されていたのでしょうか?
「地元の印刷会社に職がみつかって、そこでチラシやパンフレットなどのデザインの仕事に就きました。若い人たちに教えてもらいながら、Macやデザインについて学びました。このときの経験は、YouTubeの画像を作るときにも役立っているのかもしれませんね。
母と暮らしながら、10年ほどその会社に勤めていました。プライベートでマラソンにハマっていたんです。49才のときに東京マラソンに応募したら当選して、すごく嬉しくてウキウキしながら宿泊先の手配をしていたんですが、そんなとき、会社からリストラを告げられました。
それどころじゃなくなってしまったので、東京マラソンもホテルもすべてキャンセルをしたのですが、いまだに悔いが残っています。
その後、すぐに就職活動を始めたものの、今度はなんと大腸がんが見つかって…。初期だったので日帰り手術で済んだのは幸いでしたが、振り返ればあの頃が人生のどん底でした」
――どのように切り替えていったのでしょうか。
「母とふたり暮らしで、主に私の収入で生計を立てていましたから、母もずいぶん落ち込んでしまって、私よりも具合が悪くなっていました。
悲しんでばかりもいられませんから、仕事を探しました。あるとき知人がカフェをオープンするから店長をやってみないかと誘われて、他にも内定をもらっていたのですが、新たなカフェという仕事に気持ちが傾いて。
50代はカフェの店長として奔走しました。自分が心地よい店をどう作っていくか、カフェの仕事はとても自分には合っていました。
50代後半からは母の介護が始まって、61才からYouTubeを初めていくらか収益が出始めるようになったこと、61才からは年金も受給し始めたので、いまはカフェの仕事を減らして週1でパートとして働いています」
――お母様の介護はどんな経験だったのでしょうか。
「私はひとりっ子だったので、母とはなんでも話せる近しい親友のような関係でした。母は私が50代後半に入ったあたりから、少しずつ体調を崩すようになりましたね。
母は60代の頃に緑内障を発症し、徐々に視力が落ちていました。85才を迎えた頃にはほとんど見えていない状況で、日中ひとりにしておけなくなっていました。
母の介護では私自身が疲弊して眠れなくなってしまったことも。母に辛く当たってしまい落ち込む日々…。そんなときに頼りになったのがケアマネジャーさんでした。介護サービスから施設の探し方まで、たくさんのことを教えてくださって、とても助けられましたね。
デイサービスとショートステイを活用しながら、なんとか乗り切っていたのですが、母はショートステイをから帰ってくると、不穏な行動をすることがありました。部屋に鍵をかけて籠もり『警察を呼んで!』と大騒ぎしたことも。気持ちが落ち着くといつも通りの母に戻る、それの繰り返しでした」
「母は85才を過ぎてからは、目が離せない状況になっていて。骨折も何度かして、風邪をひくと肺炎になって、入退院を繰り返すようになりました。
90才のときに入院した後、リハビリを目的とした施設に転院しました。そこは看取りまで対応する施設で、『終末期を迎えた場合、人工呼吸や心臓マッサージで延命するよりも、人は自然に枯れていくほうが苦しみも少ないと思います』というお話を伺いました。
母がいよいよ危ないかもとなったとき、施設のかたから『最期までここにいるか、病院に搬送するか』と問われ、『施設で過ごすこと』を決断しました。
亡くなる前日には大好きなコーヒーゼリーをひと口食べて、最後は点滴もせず、自然な形で母は逝きました。93才でした」
母の介護で学んだ「人はどう老いていくのか」
――お母さまの介護を振り返って、今感じていることは?
「人はこんな風に老いて、そして最期を迎えるんだということを、母から学びました。老いていくその先にある姿を見ることができました。これは母から私への最大の贈り物だったと思います。
具合の悪い母を置いて仕事に出かけるたびに罪悪感はありましたし、ケンカもたびたびしましたから。後悔もありますが、母の介護を通じて色々なことを知りました。
介護にはケアマネジャーさんが必要であり、地域包括センターの存在や、デイサービス、ショートステイというのはどういうところなのかを知りました。
母の介護は、自分の老後の人生を考えるためのいい学びになったと思っています」
写真提供/Mimiさん 取材・文/廉屋友美乃