90歳の現役美容研究家・小林照子さんが語る大事な人の見送り方 別居していた夫が亡くなる前「最後の最後に心を通わせることができた」出来事
<家族の命が旅立つときに悔いが残らないよう、精いっぱいのことをいま、するのです>
90歳を過ぎると、親戚や親しい友人もどんどん天国に移籍していきます。当然のことながら、自分の5人の親はもう相当前に見送りました。
実の父親は、私が小学校1年生のときに病気で他界しました。まだほんとうに幼い子どもでしたから、鼻に綿が詰められた父の遺体を見ただけで、こわくて泣いてしまいました。実の父親の旅立ちのときに、私は何もしてあげられなかった。成長していく過程で、私はいつもそのことが心の中でひっかかっていました。
実母の旅立ちのときも、「ああ、なんでもっと面倒を見てあげられなかったのだろう」という後悔が残りました。でも、亡くなったあとになって悔やんでも、もうどうにもなりません。私はだんだんに学習し、養父は後悔なく見送ることができました。養父が息をひきとるときに、「おとうさん、ありがとう」と伝えることができたのも、よかったことだと思っています。
私は50歳のときに、夫と別居をしました。そして、65歳のときに夫は私の住んでいるマンションの向かいの部屋に住むようになったのですが、その3年後に夫は多発性脳梗塞になり、入院をしました。いろいろな病院で治療を受けましたが、うまくいかず、転院を繰り返しました。そして、最後は施設です。
私たち夫婦のあいだにはいろいろなことがありましたけれど、私が仕事をずっと続けてこられたのは、結局はそれでもよしとしてくれた夫のおかげです。
娘を預かってくれる保育園に近い家がいいと、その当時住んでいた家を勝手に売って、勝手に引っ越しした私。仕事が好調で、職住接近のためにひとりで職場に近いマンションに引っ越しした私。それでも夫婦関係を断ちきらなかった、私の夫。私はいままでの罪滅ぼしをしなくてはならないと必死でした。
何をしてあげられたわけでもありません。5歳年上の夫は私が70歳のときに亡くなりました。脳梗塞の後遺症がひどく、最後のほうは私が施設に行っても、たぶんそのこと自体をもう覚えていなかったと思います。
でも、夫が喜んでくれることをしたいと思ったので、私はあるとき、夫と外出をしました。施設の近くの山の上にある喫茶店まで2人で散歩したのです。夫がふいに斎太郎節(さいたらぶし)を唄いはじめました。
「松島の サーヨー
瑞巌寺(ずいがんじ)ほどの
寺もない トーエー
アレワエーエー エント ソーリャー
大漁だエ」
そこで私も手拍子を入れていっしょに唄いはじめたら、喜んで、喜んで。
はたから見たら、おかしな老夫婦だったことでしょう。でも私は、そんなことは何も考えませんでした。ただ、夫の笑顔が見たかった。夫の笑顔を目に焼きつけておきたかったからです。夫はどんどん唄いながら、歩きます。
「もっと上まで歩くぞ」
喫茶店はかなり遠方のようで、なかなか着きません。あまり夫に無理をさせたら危ないと思ったので、
「おとうさん、喫茶店は遠いみたいだから、帰ろうか。もう暗くなるから、帰ろう」
と私は言いました。そして今度は歩いてきた道を下りながら、私たちは唄いました。
「松島の サーヨー」
夫と2人で並んで歩いたのは、そのときが最後になりました。
振り返ってみれば、いつもすれ違い夫婦であった私たちが、最後に夫婦並んで歩いたのです。いっしょに歌を唄うなんてことも、なかったことです。最後の最後に私たちは心を通わせることができたのでしょうか。喜びに満たされた中で、夫は向こうに旅立ってくれたのでしょうか。
人は、人の死を止めることはできません。
でも、せめて自分ができることを精いっぱいしてあげることは、その人のためにも、自分のためにもなると思います。
私の夫はいま、私の自宅の写真立ての中で静かに微笑んでいます。