私の認知症体験記|朝丘雪路さんの娘らが語る変わらぬ家族への想い
人生100年時代に、誰もが無関係ではいられないその瞬間のために、今から知っておきたい老いの迎え方。「認知症と幸せに生きた」芸能人とその家族が語る介護の日々。それは、これからを生き抜くヒントにきっとなるはずだ。
朝丘雪路さんの介護を担った長女の真由子さん
生粋のお嬢様として知られる朝丘雪路さん(享年82)が認知症と診断されたのは’13年。以降、介護を担ったのは長女の真由子さん(45才)だった。
「突然の診断に家族は驚きましたが、朝丘さんには病名を知らせなかったそうです。ただし朝丘さんは普段から人の名前を間違えるような天然キャラだったため、認知症になってからも、以前とあまり印象が変わらなかったと聞きます」(芸能関係者)
’14年に真由子さんは、朝丘さんが主演する時代劇ミュージカル『花や…蝶や…』をプロデュースした。
「久々の舞台に発奮した朝丘さんは、全盛期のような輝きを見せました。怪しいせりふはいくつかあったけど、歌や芝居は抜群の出来栄えで病気の影響を感じさせませんでした」(前出・芸能関係者)
津川雅彦さんとの同居で明るさを取り戻した
もう1つ朝丘さんを喜ばせたのは、借金問題で別居していた夫の津川雅彦さん(享年78)と’15年から再び暮らし始めたことだ。
「朝丘さんの病状を心配した津川さんからの申し出でした。一緒に住むようになってから、津川さんが外出や帰宅する際に朝丘さんがキスをして送り迎えしたそうです。同居を機に朝丘さんは明るさを取り戻し、認知症を抱えながらも楽しく過ごせたと聞きます」(前出・芸能関係者)
’18年4月に朝丘さんが逝去すると、津川さんは出演したテレビ番組でこう語った。
「お嬢様だったのに、この不良と結婚して、ご苦労をおかけしました」
約3か月後、津川さんは後を追うように亡くなった。最後にともに過ごした3年間、朝丘さんの中にあったのは“苦労”ではなく、かけがえのない時間だっただろう。
妻の介護を経て、母の介護は「慣れた」と思えた岩本恭生
タレントの岩本恭生(67才)の介護生活はまず妻から始まった。
’08年、妻の恵美さんに脳腫瘍が見つかって手術をしたが、重い後遺症で寝たきりになった。岩本は順調だったテレビの仕事を減らして妻を介護するようになった。その最中の’12年に、実家のある北海道に家族で移住して母(92才)と同居を始めると、今度は母が認知症を発症した。
「ダブル介護でストレスが倍になり、6年間禁煙していたたばこを再開しました。何十年ぶりに同居する母はものすごく頑固になっていて、子供たちとは別の食事を用意しなくてはいけないことも重荷でした」(岩本・以下同)
’14年に、恵美さんが他界。悲しみに暮れながら母を介護する岩本を、2つ上の姉と2人の子供たちが支えた。
しかし、妻の介護を経験していた岩本にとって、母の介護に抵抗はなかったという。
「介護をすることに対しては、“慣れたなあ”という気持ちでした。ただ、母の頑固さは、性格なのか認知症のせいなのかわからず困りました。水を流しっぱなしにしたことを責めると、母は、『私じゃない、孫がやった』と必ず孫のせいにするんですよ(笑い)。けんかしても仕方ないから笑って母の言い分を受け入れていた。そんな心の余裕はありましたね」
3年前から介護施設に入居した母親は、転倒して大腿骨を骨折してしまい、現在は車いす生活だ。施設暮らしについて、「ご飯がまずい」「隣の部屋のおばあさんが頑固者」と愚痴だらけだというが、岩本の幼少期、病弱だった父に代わって、女手一つで家族を支えた彼女には、認知症になった今でも変わらぬ面影がある。
「母は、デビューした頃から、ぼくの大ファンなんです。毎日のように施設を訪れている姉にも、『あの子は仕事はあるのか?』『お金は大丈夫か?』と、ぼくのことばかりを尋ねるそうで、姉はちょっと腹が立つみたいです(笑い)。実は去年、左足を骨折して、ぼくも車いすになったんです。母との“親子ダブル車いす”の滑稽さに、周囲がバカ受けするなか、母だけは『本当に大丈夫かい』とオーバーなほどぼくを心配していました」
認知症になっても、息子への親心は消えないままだ。認知症になるのは、高齢の親だけではない。
※女性セブン2019年6月20日号
●私の認知症体験記|芸能人とその家族が語る心温まるエピソード