86才、一人暮らし。ああ、快適なり【第43回 生涯を見届ける】
1960年代に創刊、日本のカルチャーを牽引した雑誌『話の特集』の編集長を30年間務めた矢崎泰久さんに、自身のライフスタイル、人生観などを綴っていただき連載でお届けする。今回のテーマは「生涯を見届ける」だ。
矢崎氏には、仕事を通しての知り合いのみならず、麻雀や俳句の会などで長く親交を続けてきた作家、俳優、音楽家などの友が年代も幅広く、多数いるという。大切な友とも日々を振り返り、今思うこととは?
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後輩の死を見届けるのが先輩の務め
阿佐田哲也こと色川武大は根っからのギャンブラーだった。どんなことも賭けの対象にして楽しむ人だった。
知らない人のために少し解説しておくと、阿佐田哲也さんは大ベストセラー作家として、作品は今も売れている。『麻雀放浪記』の著者であり、色川武大さんは純文学小説で、あらゆる文学賞を総て受賞した小説家だった。
それだけでも凄い人なのだが、時間さえあればギャンブルに興じていた。麻雀はもとより、競馬、競輪、競艇、オートレースに通い続け、全世界のカジノを渡り歩いた。
しかも、ナルコレプシーという、日中強い眠気に襲われ、のべつ睡眠状態に陥るという珍しい病気と闘っていたのだから、手負いのギャンブラーでもあった。
私もギャンブル好きだったから、色川さんから誘われると、モナコやラスベガスまで旅したり…、帰国すれば雀卓を囲んだ。
60才で生涯を閉じた時には、ひたすらうろたえるばかりの、彼の若い奥方を助けて一切を仕切った。つまり、見届けたのである。
後にも先にも、こんな体験は一度だけだった。二度と死者を葬る気にはなれなかった。
ところが、最近多少考えが変わった。私より若い人が死ぬと、しっかりと見届けてやろうという気持ちを持つようなった。
同年輩の友人が死ぬと哀惜の念を覚えてもどこか安堵するものがあって、死を見届けるといったあまり感情は起きない。まして、私より年長者の死には長寿を祝う気分が強かった。
しかし、長い年月交流のあった後輩たちの死に関して、「よし俺が見届けてやろう」と思うようになったのである。死者を弔うのではなく「見届ける」という心境が私の心中に芽生えたのだ。これこそが先輩たるものの務めだと思うようになった。その一例を挙げる。
長い付き合いのあった夫妻との話
内田裕也・樹木希林夫妻のことは、大抵の方はご存じだろう。しかもそれぞれの方々には、それなりのイメージもあるだろう。もちろん、見届けるという作業は、それほど簡単なものではない。
まだ、悠木千帆と名乗っていた20代そこそこの希林さんが私の前に姿を現したのは、不思議なきっかけによるものだった。
『話の特集』の編集室を訪ねたいと思った、これまた新人女優だった吉永小百合さんに付き添って登場した。
小百合さんは『話の特集』の連載アンケートの回答者としてすでにレギュラーであり、お願いするにあたって、私も一度会っていた。ところが、希林さんは初対面だった。二人は当時から、ずっと親友でもあった。なかなか面白い組み合わせでもあった。
「マネージャーを出し抜くには、この手しかないのよ」と、希林さんが言うと、「これからも時々二人で来てもいいかしら」と、小百合さん。私は無論、大歓迎だった。
「あらヤダ。これブランド物のバッグじゃない。矢崎さんに似合わないよ。こんな物持っているとイメージ・ダウンです」
希林さんは、中身を取り出して「これ、私が貰ってく。いいでしょ」。
あっという間の出来事だった。小百合さんは楽しそうに笑っていた。今から50年以上も前のことだ。
ロックと麻雀
「結婚します。相手はコイツです」
しばらくして、希林さんはサングラスをかけた、チンピラ風の長髪の兄ちゃんを連れて、私の前に現れた。
「内田裕也と言います。ロックン・ローラーです。ビートルズの前座をやりました。よろしく。ロックと呼んでください」と、彼は挨拶した。
「あのね、この人、麻雀と競馬が大好きなの。矢崎さんに弟子入りしたいんだって」と希林さん。
「強い人に痛めつけて欲しいんです。阿佐田さんと友達なんでしょ?遊んでください」
ロックは頭を下げた。そんな機会が訪れたのは、70年代初めの頃の正月だった。私の家に阿佐田哲也、五木寛之、小沢昭一、畑正憲、大西信行、井上陽水といった超豪華メンバーが集まって二泊三日の麻雀大会をやることになった。
そこに、ロックを呼んだ。デビュー戦にしては、相手が揃い過ぎていた。ロックは気負って何回目かに卓に着いた。最初のメンバーは畑、大西、そして私だった。
苦戦したロックは、南場(なんば)の親の時に、大声で叫んだ。
「ストライク!トイ・トイ三暗刻、ドラ・ドラ。親ッパネです」
誰も知らん顔して、麻雀を続けている。
「ね、オレ上がったンですけど…」と、ロック。
「ストライクって言ったよね。野球じゃないんだ。そのまま続けても、チョンボ(反則)だ」と、冷静な畑さん。「そうだね、これはチョンボだ」と、大西さんも涼しい顔をしている。
罰金を取られ、ロックはボロ負け。阿佐田さんとも手合わせをしたが、もう、ツキから見放された。1日目の夜明けにスッテンテン。
「もう、現金ないです」と、ロック。
「じゃあ、帰って寝なさい」と、麻雀の神様のキツイ一言。しばらくして、希林さんが、まだ誕生間もないヤヤコ(娘さんの名前。正式には也哉子)を小脇に抱えて、キャッシュを届けてきた。偉い!
ロックは直情にして乱暴だから、本当はギャンブルに向いていない。でも絶対に一生やめたりしなかった。
夫婦はそれぞれ良い仕事をした。年に1度ほどしか会わない別居生活だったが、その絆は固かった。互いのことをいつも気にかけていた。私に届く情報は、両方から切れ切れではあったが、愛に満ちていた。
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』最新刊に中山千夏さんとの共著『いりにこち』(琉球新報)など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。