兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし【第169回 秋の夜長のひとりごとです】
若年性認知症の兄との暮らしをライターのツガエマナミコさんが綴る連載エッセイ。兄との日常から離れ、今回は社会問題についてあれやこれやと思いを巡らせたというお話。兄の介護で日々奮闘するマナミコさんだからこその意見は、深まる秋のように深~いのです…。
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合理的ではないものは不要なのか…
「きょうだい児」という言葉を知りました。
障害や重い病気をもつの人の兄弟姉妹の総称だそうです。まさに自分のことだ!と思ったのですが、内情はだいぶ違っていました。
小さい頃から精神障害や身体障害がある兄弟姉妹がいることによって周囲から避けられたり、親の愛情がきょうだいに偏っていると感じたり、介護で自由を奪われたり、結婚の障害になったりする現実があるのだそうです。
「遺伝するんじゃないか?」とか「将来、面倒をみなくてはならないから」という理由で結婚を躊躇されたり、相手の家族から反対されたりして、自分から別れを切り出すというパターンもあるそうでございます。
聴けば聞くほど気の毒で、人生の後半からきょうだい児になったわたくしなど幸せなほうだと、我が悪態を反省いたしました。
「障害者だって同じ人間なのだから、社会全体で助け合うのが当たり前」とか「障害者も障害に甘えないでできることはやるべき」とか「きょうだい児であっても幸せになれる仕組み作りが必要だ」といったコメンテーターの意見を聞きながら「理想論だな」とつぶやいていました。
わたくしが頭の中に浮かべたのは、高齢者施設や障害者施設での悲惨な事件が絶えないことでございます。介護をプロに任せれば、家族の負担は減らせるけれど、介護のプロも所詮は人間ですから、理不尽な要求や職場環境の過酷さに加え、感謝どころか罵声を浴びせられたりすれば爆発してしまうのも無理はないと思うのです。犯した罪は許されてはいけませんけれど、わたくしは悲惨なニュースを見るたび同情的立場になってしまいます。環境が人を変えてしまうのだと…。
どんなにわがままで暴力的になろうとも、それが病気である以上は誰かが面倒をみなければいけないのは明らかです。それが家族なのか、プロなのか、その押し付け合いではない解決法があるなら何でしょうか?
世の中が便利になるにつれ、厄介なものはより、いっそう厄介に感じるようになった気がいたします。わたくし自身、できるだけ無駄を省き、合理化するのがいいことだと教えられているうちに、非合理的なものは要らないという思考に傾いているのかもしれません。
そんな中で「反出生主義」という言葉も知りました。
とても大雑把に言うと、「生きることは苦しさが伴う。ならば今生きるすべての人が子どもを産まなければ苦しむ人はゼロになる」という極論です。人が生まれてきさえしなければ病気もないし、戦争もなくて、誰も傷つかない。おまけに人類が滅亡した後は地球環境が汚れることもなくてSDGsも解決いたします。
極論好きのツガエは、「なるほど一理ある」とすんなり受け入れたのですが、「それは思考停止で短絡的だ」と言われれば、愚かな思想とも思えます。今がとても幸せなら、「自分の子にも同じ幸せを味わってほしい」と思うのが自然ですし、「自然がヒトを生み出したのだからヒトは生きるべきだ」と考えるのももっともな気がいたします。
その一方で、生物学の世界では「人が遺伝子を操作する」という神の領域に足を踏み入れているそうです。例えば2018年には中国で「ゲノム編集ベビー」の誕生が発表されたとか。HIV(エイズ)に耐性を持つように遺伝子を組み替えた双子の赤ちゃんを誕生させたというのです。もし本当なら将来的にはあらゆる病気が遺伝子操作で防止でき、障害者もきょうだい児もいなくなるではないですか。なんと明るい未来…と喜んだのもつかの間、そう簡単ではないようで、遺伝子操作の副作用はどこにどう出るか分からないそう。要はHIVに耐性があってもほかの病気にはめっぽう弱いということも起こりうる。こちらを立てればあちらが立たずといったところでしょうか。
倫理的に許されないことも科学的には可能になる時代でございます。いつか認知症に耐性を持つ遺伝子操作した子どもも生まれるのでしょうか? そんなことをひとり考えた秋の夜長のツガエでございました。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性59才。両親と独身の兄妹が、8年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現63才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ