【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第23回 花いっぱいの季節に」
写真家でハバーリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。
飯田さんが、父亡き後に認知症を発症した母との暮らしや、親の介護をする娘の気持ちのあれこれをリアルタイムに写真とともに綴ります。
一年前の記憶がなくなった母
房総では春は花の最盛期。昨年、母と一緒に花巡りをしたことを思い出す。あっという間の一年だった。
この一年でコロナウイルスに席巻された社会は急速に様変わりした。リモートや在宅でなど、仕事の場所が変化し、それに伴い日々の暮らしのあり方やライフスタイルを変えざるを得なくなった人も大勢いる。
言い換えれば、パンデミックという世界的な危機状況下であったから、個人的な事情やそれぞれのお国事情だけではない汎地球的な変容を余儀なくされた一年だった。
私自身を振り返れば、介護時期がちょうど重なり、家の中にいる必要があったので、旅ができないぶん母との時間、いわゆる“ババさん”サービスを余裕を持ってできたように思う。
私:「ママ、今年も花農家さんのハウスに行って花摘み行こうか?」
母:「え?そんなことしたことないね」
私:「ええ?花がたくさん咲いてるビニールハウスの中で、倒れてしまったものとか、両手いっぱいにお花を摘んで、まだ欲しいってママ大興奮していたのに…、全然覚えてないの?じゃあ、千倉の花畑で海も見えて香りも素晴らしかったことも覚えてないの?」
母:「う~ん、そんなことしたかなあ?覚えてない」
と、首を傾げている母。
私は内心ショックだった。普段は全く会話的には普通に成り立っているけれど、近々に体験することはすべて記憶に定着しないのだというショックと、そして、なんのために母を喜ばせたの?親孝行貯金振り出しに戻りゼロってこと?という達成感リセットのガッカリ感とでもいうのだろうか…。
「あのね、ミュージシャンのお友達とね、毎年出荷できない曲がったお花を摘んで、飾って、音楽を演奏するフラワーフェスティバルをやっていて、そのためのお花を明日摘みに行くからね!」
「ああ、そうなの。よくわからないけれど、はい、行きますね」と母。
房総の花農家さんにとっても今年はコロナの影響を受けて、大変な一年だった。
ハウスの中では農家さんが、丁寧にグリッドに糸を張った間に金魚草の苗を植え、まっすぐに育てたタワー状の花を出荷している。
しかし、自然界の花はどれもすべてが天に伸びるわけではない。茎が曲がったり、下に下がってから上に伸びたり、そんな花たちは出荷されず土に戻される運命にある。
ハウスに到着すると、「ハウスの中は気温高いからお母様は無理しないでくださいね」と、すでに先に来ていた友人が花を外でまとめながら母に声かけしてくれた。
母は「可哀想に、せっかくお花を咲かせたのに、持って帰って飾ってあげましょうね」と言い、張り切って摘み始めた。
写真を撮りながら花も摘みつつ、の私は母の様子を見ていた。
足元はあまり良くなかったが、それでも「黄色が欲しいなあ、ピンクも可愛いね」と、やる気満々。
花の色や形はなぜ人の心を和ませてくれるのだろう?
古から、花は人の営みに欠かせない
考古学では、ネアンデルタール人も死者に花を手向けた形跡があると報告されているという。花を美しいと感じるのは、元々人に備わったもので、植物が生き延びるため、人と協力する必要があったことの証でもあるのかもしれない。
人は死して花に埋もれる。葬儀の時、かつての日本での定番は白い菊だった。
最近では、故人が好きな色や花を生前から指定する場合もある。花を手向けることは、人にとって、衣食住と同等か、時には上回るほど必要な位置にあるのかもしれないと思った。
ハウスで摘んだ花を車に載せ、途中、道の駅でご当地自慢のミルクをふんだんに使ったソフトクリームを労働のご褒美に食べた。
「小さな頃ね、おばあちゃん(私の祖母)と神田の家から日本橋の三越にタクシーで行ってね、アイスクリームをデパート食堂で食べるのが楽しみだったのよ。冬でもケイコ(母の名)はアイスクリームとホットケーキしか食べない、って言われてたわね」と、母は戦前の良き日の思い出を語り上機嫌だった。
フラワーフェスティバルの準備会場へ移動し、花束作りが始まった。
コミュニティーガーデンを主催する友人のS子さんはフルート奏者で、ラテン音楽を館山と東京の二拠点でライブ活動をしている。私が房総に移住してすぐにご縁ができ、今は写真映像と音楽でコラボレーションしたり、ガーデンでの活動を盛り上げるお手伝いもさせてもらっている。
花の茎を整えたり作業に勤しむ母に「お母さん、全然お元気じゃないですか!うちの母とほぼ同じ齢だけど、それに比べても相当に」とS子さん。
もう一人の友人も遠方からのお母様を連れてこられていた。
エプロンをつけて普通では手にすることもないだろう分量の金魚草のブーケを作り続け、翌日のイベントへの準備をした。それは、花屋さん体験のようだった。
「いやあ、こんなところ初めて来たわ。この家の造りもなんですか、カッコいいねえ」とガーデンにあるログハウスに入って感嘆の言葉を連呼する母。
そうなのだった。母は、口を開けば「丸の内の英国船舶会社でOLしていたのよ」と誰彼に話しているのだが、私を産んで以来主婦だったし、それも、あまり活発に外出しないタイプだった。テレビでの情報はいくらあったとしても、多種多様な現場での体験はほぼないと認識し直した。そして、食事など、日々のさまざまな記憶は薄れても、その場での対応力や感動力は健在であるということだ。
花を触り続けていると、「ああ、去年も花たくさん摘んで、マンションの人にも分けたわね」と母の記憶が蘇ってきた。
「うん、今年もフェスティバルで余ったものはマンションの人に分けようね」と私。
この日はほぼ一年ぶりに私のマンションに泊まることにした。
管理人さんの奥さんが「あら、飯田さんのお母様、お久しぶりですね。お元気そう!」と大量に持ち帰ったお花をバケツに入れ、エレベーターホールに置き「ご自由にお持ち帰りください」と書いた紙を貼ってくれた。
母は「良かったね、この子たち。曲がってたって飾られるために咲いたお花だものね」とバケツに入れられた花に話しかけている。
「ここで音楽の演奏をするの?聴いてみたいね」と母はイベントにも興味津々だったが、やはり前日の疲れが出たのか、当日は「私は今日は部屋で留守番している」と言った。
マンションでは週末に大きなお風呂が開放されるので、入ろうと誘うと、それは躊躇しなかった。勝浦だと、つい「今日もう疲れたからお風呂は入りたくない。寝ます」ということが多いのだが、こうやって、時々環境が変わるのは意外と刺激になるのかもしれない。
息子と娘で違う母の対応
そうこうしているうちに、広島で暮らす弟が、2泊だけだが、東京の用事がてら勝浦までやってきた。
「今、Kはどこに住んでるの?大阪?」と母。
「広島だよ。お正月に来ていたでしょう?孫も二人連れて」との私の言葉に首を傾げる母。
「ここで3人でいたでしょう?皆大きくなって」と私。それでも母は「わからないなあ、来てたの?」と怪訝な表情のままだ。
そして、弟が来てみると「ねえ、私の口紅捨てたの?化粧道具がないじゃない!」と私に訴えてきた。
「え?捨てるわけないじゃない、ほら、ここにあるでしょう?」と指さす。すぐわかるように、洗面台の脇にファンデーションと口紅はいつも置いたのだ。
普段は、私が「ママ、少しは髪をとかしたりお化粧した方がいいよ」と言っても、聞く耳を持たない。特に口紅は最近、ほぼ使った試しがない。
しかし、息子効果というのもは凄い!それも2日という刹那が双方にとってさらに良い。息子には、母であれ、女の見栄や恥じらいが、いくつになってもあるのだろう。
では、娘とは母にとって一体なんだろう?
同じような境遇の友人曰く「分身であり、ライバルかな」
うーん、わかりやすいような、わからないような…。
そんなモヤっとした気分の時は花に視線を向け美しさに感じ入る。そうだ、それに限ると思った。
(つづく)
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。Gardenstudio.jp(https://www.facebook.com/gardenstudiojp/?pnref=lhc)代表。