85才、一人暮らし。ああ、快適なり【第30回 貯金嫌い】
矢崎泰久氏は、伝説の雑誌『話の特集』の編集長を創刊から30年にわたり務める傍ら、テレビや映画などのプロデューサーとして活躍してきた。文化人や芸術家を次々とキャスティングして話題をさらう、その手腕と交流関係の広さは、今も健在だ。
85才になった今は、自ら望んで家族と離れて一人暮らしをしている。社会に問題提起するその生き方、信念、ライフスタイルなどを寄稿していただくシリーズ連載、今回のテーマは「貯金」。
さて、矢崎氏にとってお金とは? 悠々自適独居生活の極意ここにあり。
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「新円切り換え」が貯金嫌いの原点
大学を出て新聞社に就職したのは、23才の時だった。以降62年間働き続けて来たが、貯金をしたことは一度もなかった。
収入が銀行など金融機関に振り込まれることはあったが、一時預けの感覚だから、たちまち無くなる。思いがけない臨時収入があっても、手元に現金を持っているのが好きだから、預貯金などはしない。
子供の頃、私は比較的恵まれたガキだったらしい。つまり小遣いに困った記憶がない。
ところが父親が貯蓄好きで、「子供が金を持っているとロクなことはない」と言って、私のお金を片っ端から銀行に預けた。
「こんなに貯まったぞ」と、私に預金通帳を見せるのだが、通帳も印鑑も渡してくれることはなかった。
お年玉も、親戚の叔父さんからもらったお小遣いも片っ端から預金されてしまう。
もっとも少年時代は戦時中で、買いたい物も売って無かったし、使う必要もほとんどなかった。
父が預かっていた通帳にどれくらい貯まっていたかは記憶が正確ではないが、少なくても敗戦時には数千円(現在なら2~3百万円)はあっただろう。
ところが、敗戦と同時にインフレーションが起きて、貨幣価値は一気に下落、「新円切り替え」という事件もあって、預貯金は紙クズ同然になってしまった。
国に完全に騙されたという苦い経験をその時味わったのだ。恐らくこれが、貯金嫌いの原点だったに違いない。
ギャンブルには、駒(種銭<たねせん>のこと)が必要である。見せ金(みせがね)ともいう。
父親が雑誌編集者だったので、我が家では日頃から作家や編集者が集まって、賭けマージャンをやっていた。メンバーが足りなかったりすると、まだ中学生の私がかり出された。ピンチヒッターだ。
坂口安吾、織田作之助、十返肇などといった流行作家たちは、高いレートで遊んでいた。そこに参加するのだから、こっちも必死である。私はメキメキ麻雀が上達した。
学校の友達にもギャンブルを教えた。花札、カード、麻雀、チンチロリン。種目もどんどん覚えた。高校へ通う頃には、競馬、競輪にものめり込むようになった。
駒が要る。したがって現金をいつもポケットにねじ込んでいた。貯金より現ナマだった。
その習慣がすっかり身について、ポケットのあちこちに紙幣をネジ込んで生きてきた。
金は天下の回り物。何とかなる
遊んだり、浪費したりするお金はあったが、それで何か、例えば家を買うとか、良い服を買うとか、高価な美術品を買うとか、そういう気持ちはサラサラなかった。勝ったり負けたりが面白いのだからしょうがない。
その合間に仕事をしている気分で、自分の会社を興すまで、遊びにうつつを抜かしていた。
「江戸っ子は宵越しの金(よごしのかね)は持たない」という言葉もあったが、金は使うためにある。遊ぶためにあると信じて少しも疑わなかった。
出版社の社長になってからは、社員に月給を払わなければならないし、仕事上、銀行から借金もしなくてはならない。それでも、自分の収入となると、ほとんどは遊びに使った。
やがて家庭を持って、家族を養うようになっても、この習慣を改めなかったので、妻からのべつ文句を言われてばかりいた。
勝てば極楽、負ければ地獄。それが日常だったが、金の儲かる仕事はせっせとやった。総てがギャンブル感覚だから、家人はさぞ不安だっただろう。
頭の何処にも、貯金とか蓄財とかの意識はカケラもなかった。
子供たちは、そんな私を見て育ったから、身の危険を感じて貯蓄するようになったのかも知れない。貯金をしない私に、ひたすら呆れていたようである。
「イザという時どうするのよ」と、妻は言う。
「何とかなる。金は天下の回り物だよ」と、私は平然としている。とにもかくにも貯金は真っ平なのだ。
無論、私には老後の蓄えなどという意識は爪の垢(あか)ほどもない。85才の今日では、突如極貧に見舞われたりすることが少なくない。
でも、平気の平左なのだ。戦争中ではあるまいし、餓死する心配はないと思って、いつも吞気(のんき)にしている。いざという時には、山ほど友人はいる。麻雀に誘えばなんとかなるさ。
『侍ニッポン』という、昔観た映画の主題歌が大好きだった。無一文になると、今でも時々歌う。
「アーハッハッハ スッカラカンの空財布…のんきだね」
矢崎泰久(やざきやすひさ)
1933年、東京生まれ。フリージャーナリスト。新聞記者を経て『話の特集』を創刊。30年にわたり編集長を務める。テレビ、ラジオの世界でもプロデューサーとしても活躍。永六輔氏、中山千夏らと開講した「学校ごっこ」も話題に。現在も『週刊金曜日』などで雑誌に連載をもつ傍ら、「ジャーナリズムの歴史を考える」をテーマにした「泰久塾」を開き、若手編集者などに教えている。著書に『永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」 』『「話の特集」と仲間たち』『口きかん―わが心の菊池寛』『句々快々―「話の特集句会」交遊録』『人生は喜劇だ』『あの人がいた』など。
撮影:小山茜(こやまあかね)
写真家。国内外で幅広く活躍。海外では、『芸術創造賞』『造形芸術文化賞』(いずれもモナコ文化庁授与)など多数の賞を受賞。「常識にとらわれないやり方」をモットーに多岐にわたる撮影活動を行っている。