堂本暁子さん✕樋口恵子さん 89才同級生対談「60才は新たなことのはじめどき」
“人生100年時代”といわれて久しいが実際に100才が近づいたとき、自分がどう生きているか想像できる人はほとんどいないだろう。そんな中で90才を目前にして、パワフルに、そしてチャーミングに活躍を続ける女性たちがいる。元千葉県知事・堂本暁子さん(89才)と評論家・樋口恵子さん(89才)だ。戦火を生き抜き、「女性は家庭を守る」が当たり前だった時代に第一線で働き続け、道を切り開いてきた彼女たちのおしゃべりに、いまこそ耳を傾けたい。
「人生100年時代」の体の変化
ふたりがしゃべり始めると、女学校の教室のように楽しげな雰囲気になる。それもそのはず、評論家の樋口恵子さんと元千葉県知事の堂本暁子さんは、40年来の友人で同い年の89才。来年には揃って卒寿を迎える「同級生」なのだ。
堂本 樋口さん、今日のお洋服とっても素敵ね。
樋口 堂本さんこそ、イヤリングがおしゃれじゃない。
堂本 ありがとう。実はイヤリングが素敵に見えるような髪形にカットしてるのよ。
樋口 「人生100年時代」っていうけれど、平均寿命の87才を超えて90才に近づくと、これまで想像しなかった体の変化を感じるわ。
堂本 本当に。そもそも自分が90才を迎えるだなんて、思ってもみなかった(笑い)。
樋口 70代だって若い頃に比べたら体にガタがきていたけれど、想定の範囲内。スタスタと歩いてどこにでも行けたけれど、80を過ぎると朝起きたりトイレに行ったりするのもひと苦労。よろめきながら生きる「ヨタヘロ期」よ。
堂本 本当におっしゃる通り。特に私はひとり暮らしだから、転倒してそのまま孤独死なんてことにならないように、とても気をつけています。
樋口 私も85才を過ぎた頃から転びやすくなって、実は先日、自宅の階段から転げ落ちてしまったの。そのときは、同居している娘が家にいたし、顔も頭も打たずに手足の打撲ですんだからこうしてあなたとお話しできているけれど、打ちどころが悪かったら…。
堂本 それは大変。だけど、骨折しなくて本当によかった。
樋口 そのときの検査で、骨密度が同世代の女性の1.5倍あることがわかったの。あまり運動をしてこなかったのに不思議ね。
堂本 それはすごい!私は大学時代は登山に熱中して、スキーやテニスも大好きな“スポーツ少女”だったけれど、足腰への不安は一緒よ。いまは何か、対策してる?
樋口 月に2回、パーソナルトレーナーに家に来てもらって、ストレッチを習っているの。特に息を吐きながら「イチ、ニのサン」と心の中で数えて立ち上がる簡易ストレッチはこまめにやっています。
堂本 やっぱり下半身の運動は重要よね。私は、プールで水中ウオーキングをするように習慣づけています。80代以降でも健脚を維持するには、本当はもっと前から鍛えておかないといけないってことを、ついこの前知ったの。だけど、知事の仕事って座りっぱなしでしょ? 忙しさにかまけて運動しなかったのは反省よ。
樋口 私も70代の頃、お金を払ってプールやジムに行く人のことを“なんて暇な人たちなんだろう”って思っていたけれど、大きな間違いだったことがよくわかったわ(笑い)。お金を払って、自分の体に投資しておくことは大切ね。
「もう人生が終わるなんて、あぁ、つまんないの」
体力の衰えを感じるというふたりだが、その活動は精力的。樋口さんは38年前に立ち上げたNPO法人「高齢社会をよくする女性の会」の理事長を務めながら、評論家として書籍も出版。堂本さんは、千葉県知事を退任後、有識者を集めて2013年に「女子刑務所のあり方研究委員会」を設立。政策提言などを行う。
堂本 私たち、来年には90才になるでしょ? 確かに衰えを感じるところもあるけれど、意外と元気だし何よりまだやりたいことがたくさん。
樋口 ええ。最近まさに、それを実感する出来事があったの。実はこの前、ちょっと難しい病気の可能性があって検査を受ける必要が生じて…。まだ不明なところもあるんですが、急にどうこうというほどでもないらしいという“グレーゾーン”にいます。
堂本 そんなことがおありになったなんて…。
樋口 そのとき、どう感じたと思う?夫を見送って死生観も確立しているはずなのに、「もう人生が終わるなんて、あぁ、つまんないの」と思ったの。もちろん、この年だから泣きわめいたり落ち込んだりはしませんよ。だけど「なんだ、もう終わりなの」って残念だった。やっぱりそれだけ、生きるということはおもしろいのよね。
堂本 本当にその通り。長く生きていると、去ってゆく人、先に逝ってしまう人も多いでしょう。そういうとき、悲しさや寂しさを感じながらも、「やっぱり、死んでしまうと元も子もない」と強く思うの。樋口さんも、まだまだやりたいことがあるんでしょう?
樋口 もちろん!卒寿記念に、高齢女性の地位向上に貢献した個人・団体を励ます「樋口恵子賞」を作りたいと思っていて、少し貯金してきました。周りの人も大賛成。大金持ちではないから期間10年くらいで皆さんに楽しんでいただきたい。
堂本 次世代の女性たちのためにも、すぐに始めた方がいいわね。私も女子刑務所の問題に取り組んでいて、実際に服役中の女性と話すこともあります。日本では、刑期を終えると一方的に社会に放り出すだけ。それなのに出所した女性の社会復帰をサポートする仕組みはまだ不充分。いまからでも、変えていきたい。
女子大なのに女子の求人なし
年を重ねてなお、活躍の場を広げるふたりだが、そこに至る道のりは決して平坦なものではなかった。
樋口 いまもコロナ禍で就職難だと聞くけれど、私たちが社会に出た頃も、男性向けの求人ばかりで、仕事探しには苦労したわよね。
堂本 本当に。私が通っていたのは女子大なのに、掲示板の求人票を最後まで読むと“男子のみ”って書かれているのよ。ひどいでしょ(笑い)。
樋口 おかしな話ね(笑い)。
堂本 そんな状況だったから、就職先がないまま大学を卒業せざるを得なかった。2年くらいはお皿洗いとかアルバイトをしていたわ。
樋口 私は東大の新聞部で女性初の編集長をやったりして、ジャーナリズムの道に進みたかった。女性記者として新聞の家庭欄をもっと充実させたかったの。だけど多くのマスコミは女性に受験もさせてくれないの。最終的に、時事通信社に入社しましたが、女性は期待されていませんでした。堂本さんも、政治家になる前はTBSで報道記者として活躍していたでしょう? やっぱり、入るのは大変だった?
堂本 いえ、私の場合は運がよかったの。当時、TBSで新たに女性向けのニュースを作るからと女性を募集していたんです。もう大学は卒業していたけど、先生から声をかけていただいて。ただ、テレビはまだできたばかりのメディアで、ジャーナリズムにもそれほど興味はなかったから、「合わなければ辞めればいい」という感じで面接会場に向かったの。失礼な話よね。
樋口 確かに、あの頃のテレビは時代の先端を行く半面、娯楽的要素が強かったかも。
堂本 そう。だけどいざ働き始めるとおもしろくて、3日も経たないうちにあっという間にのめり込んだから人生って不思議ね。印象深かったのは入社して4年後の1963年、ケネディ大統領が暗殺されたときのこと。アメリカから入ってくる映像にリアルタイムで日本語訳をつけてニュースとして流すから、とにかく忙しくて、会社に泊まり込んで仕事しました。ケネディの話すしゃれた英語には、辞書を引いてもわからない単語がたくさんあって原稿を書くのに苦労したの。
樋口 私、その映像覚えてる!夫の社宅で主婦としてテレビで見ていたのよ。
堂本 あら、あの頃もうご結婚されていたのね。
樋口 ええ。苦労して入ったはずの時事通信社を1年と1か月で辞めてしまったの。
「女性が結婚や出産で一度仕事を手放したとしても、また手に入れることができる」ことを知って欲しい
堂本 そんなに短かったとは知らなかった。どうしてお辞めになったの?
樋口 すべて自分のバカさと未熟さが原因ね。当時の時事通信では新人研修の後、大部屋に置かれ、各部局からお声がかかった人材の配属先が決まるシステムだったんだけれど、私は最後まで呼ばれなかった。その年度は新卒が17人。政治部とか外信部とか、花形部署から次々に同期たちが名前を呼ばれるのを黙って見ているよりほかなかった。あまりにもつらくて、近所の川に身投げしようかと思ったくらいだったの。
堂本 飛び込まなくて、本当によかった!だけど確かに、つらい経験だわ。その後、どうなったの?
樋口 夏近くになってようやく配属先が決まったの。昼間はモテないのに夕方になると上司や先輩たちから「今夜、空いてる?」ってお酒の席に誘われる。女性社員は少なかったし、愛嬌はあったから、夜になるとモテたのよ(笑い)。あるとき、そうして誘われたお酒の席で、社内標語コンテストの話になったの。男性のデスクが「いい案を思いついた」と言って得意げな顔をするのよ。
堂本 一体何て言ったの?
樋口 <ババアがいても時事通信>と言ったの…。
堂本 それはヒドい!
樋口 当時私は20代前半だった。だけど誰だって年はとる。大体、その男性だって40代だったし年上の女性社員もいるんだから、一緒にケラケラと笑うことなんてできなかったの。腹が立ったけれど、お酒の席の楽しげな雰囲気を壊す勇気もなくて、愛想笑いしかできない自分に嫌気がさしたの。
堂本 水が合わなかったのね。
樋口 ええ、それで典型的な“ダメ女”の生き方を選んだ。条件のいい人と結婚をして仕事から逃げたの。人生の汚点よ。本当にバカだった。私がすぐに辞めてしまったから、その後5年以上、時事通信では女性が採用されなかった。後ろに続く優秀な女性のチャンスをつぶしてしまったの。
堂本 その状況ならば、私だって長く勤めることはできなかったと思うわ。やっぱり戦前からの伝統を持つ会社だからこそ、しがらみを感じた部分もあったんでしょうね。テレビ局は伝統や秩序がない反面、自由な雰囲気があった。だから窮屈さを感じることはなかったのかもしれないわ。だけどきっと、苦い経験があるから、いまがあるのよ。
樋口 ええ。この経験があったからこそ、「二度と後に続く女性たちに迷惑をかけてはいけない」と努力することができた。私がそうだったように、女性が結婚や出産で一度仕事を手放したとしても、また手に入れることができることを、多くの人に知ってほしい。
堂本 人間いくつになっても新しいことができる。私が千葉県知事になったのも68才だった。2期務めて、退任は76才。体力的にはまだやれました。
樋口 ここまで生きてきて思うのは、60代は新しいことを始めるのに最適な年齢だってことね。30~50代は苦しいことがたくさんあるけど、60代は人生がひと段落しますから。例えば、「世界最高齢プログラマー」と称される86才の若宮正子さんとは最近知り合ったのですが、彼女がプログラミングを学び始めたのは60才を過ぎてから。81才で世界的に注目されるアプリを開発していることを思えば、70代なんて、人生のスタート地点。
堂本 その通り。いま振り返ってみれば、70代がいかに若かったことか(笑い)。60代に人生でやり残したことを考えて70代から再スタートさせることだって、できるはず。
樋口 70代なんて、私たちに言わせれば少女時代よね!
激動の日本とふたりの歩み
★1932年
5月、樋口さん東京都に生まれる。
7月、堂本さんアメリカ・カルフォルニア州に生まれる
★1945年
終戦
★1946年
婦人参政権初導入
★1955年
堂本さん、東京女子大学卒業
★1956年
樋口さん、東京大学卒業。その後、時事通信社入社
★1959年
堂本さん、TBS入社
★1963年
ケネディ米大統領暗殺事件
★1971年
樋口さん、評論家として独立
★1986年
男女雇用機会均等法の施行
★1989年
堂本さん、参議院比例区で初当選。昭和から平成へ
★2001年
堂本さん、千葉県知事に当選
★2003年
樋口さん、東京都知事選に出馬
★2005年
樋口さん、「高齢社会をよくする女性の会」理事長に就任
★2013年
堂本さん、「女子刑務所のあり方研究委員会」設立
★2014年
樋口さん、「東京家政大学女性未来研究所」初代所長に就任
教えてくれた人
評論家 樋口恵子(ひぐち・けいこ)さん
1932年東京都生まれ。評論家。NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長、東京家政大学名誉教授、同大学女性未来研究所名誉所長。『老いの福袋 あっぱれ! ころばぬ先の知恵88』(中央公論新社)など著書も多数。
元千葉県知事 堂本暁子(どうもと・あきこ)さん
1932年アメリカ・カリフォルニア州生まれ。TBSで記者・ディレクターとして福祉や教育問題を中心に番組制作後、参議院議員、千葉県知事を歴任。現在は「女子刑務所のあり方研究委員会」を設立し政策提言などを行う。
撮影/本誌・黒石あみ
※女性セブン2021年10月14日号
https://josei7.com/