パーキンソン病の妻の腎臓を夫に移植 その後夫は世界大会で金メダル!互いに支え合う夫妻の物語
「私の腎臓を1つあげる」
そう申し出た妻も、実は重篤な病を抱えていた。妻の決意を胸に、夫は勢いよく水中へと飛び込む──
「移植者だって、こんなにも活躍できる。それを証明するのが私の使命でもあります」
にこやかな表情に180cmはあろうかという身長、がっちりとした体格をもつ若松力(ちから)さん(64才)。それもそのはず、若松さんは世界移植者スポーツ大会の金メダリスト。力さんは小学6年生の頃から、姉の影響で始めた水泳を続けていた。それは中学、高校、大学と進学しても変わることなく、社会人になっても続けるほど、心から水泳を愛していた。
東京都墨田区にある戸建ての2階に上がると、妻・恵子さん(64才)がちょうどお茶の準備でキッチンに立っていた。
「おーい、おれのお茶はまだ?」
「はいはい、今やりますよ」
にこやかに行われるそんな夫婦の何気ないやりとりから、ふたりの仲睦まじい様子が一瞬で窺える。テーブルには、夫婦ふたりで勝ち取った輝かしいメダルがずらりと並んでいる。これが本物の金メダルかと感心していると、力さんは照れくさそうに「大したもんじゃないですよ」と笑みをこぼした。このメダルがいかに栄誉あるもので、ふたりにとってどれだけ思いのこもった価値あるものか、大事に保管されているところからみても一目瞭然だ。「私のおかげよね」。わずかにおぼつかない足取りで席に着いた恵子さんは、冗談交じりに言う。「たしかに、その通りかもな」。
多発性嚢胞腎(のうほうじん)を患い、妻の腎臓を移植した力さん。パーキンソン病を患い、夫に腎臓を提供した恵子さん。お互いが支え合いながら生きていくことを選んだふたりは、その後、移植者によるスポーツ大会の世界の舞台へと夫婦で挑んでいく。
ふたりは一体どんな運命的な出会いを果たし、そして、共に生きていくことを誓い、同じ目標を目指していったのか。過去を振り返りながら、ふたりの軌跡を聞いた──
ふたりの出会い
──ふたりの出会いは?
力さん(以下、敬称略) ふたりとも新潟高校っていう高校の出身で、一時おれが東京での新潟高校の同窓会の学年幹事をやっていて、その時に知り合ったんですよ。
恵子さん(以下、敬称略) 同級生だったものの、10クラスもあったから…。大人になってからの同窓会で初めてまともに話しましたね。
力 当時この人はコピーライターをやっていて、おれと同窓会で会った時に、『日常生活にスポーツを取り入れている人』っていう特集を組んでるからってことで話したんだよ。生保会社のパンフレットだった。42才の時に同窓会で会って、その何か月後かに取材されたからはっきりわかる。同窓会の一次会はみんなで話して、二次会でこの人お酒も飲めないのに来て、「毎日泳いでいるんですか? その様子をカメラマンと2人で撮らせてもらえませんか」って。その当時は春日部にあるプールで泳いでいたので、そこにカメラマンと2人で来て、泳いでる写真を撮って…。
恵子 同窓会にせっかく出たから、何かに使える人は使おうと思って。そしたら取材にいけるじゃないですか。この人は医者だから健康に使えるとか、この人は先生だから教育に使えるとか、ちゃんと印をつけていた。だから、そのあと健康のテーマでやるっていうから、早速。
力 釣られたんだよ、おれ(笑い)。
恵子 この人は、よくしゃべるから目立っていたの。私は強引な人が好きだから、多分それに引っかかっちゃった。
力 おれはおれで、ああ、きれいな子だなと思って。
恵子 本格的につきあい始めたのは47才の時ですね。お互いこんな年だからいろいろとありましたし、私の引っ越しを機に。
それぞれ、力さんは建設コンサルタントを営みながら水泳を続け、恵子さんはコピーライターをしていたある日、同窓会という場でふたりは出会った。当時、お互いに家庭があったが、どちらも夫婦別々の道を歩む決断に踏み切る寸前の複雑な状況だったという。恵子さんには子供もいたため、過渡期が終わるまで交際はできずにいたという。