ラブホは脱衣所、浴室が広く要介護や車いすの人が利用しやすい
JRと京阪電鉄、市営地下鉄が乗り入れる大阪・京橋駅に、“昭和遺産”とまで称される伝説のラブホテルがある。その名は『HOTEL 富貴』。1977年に開業した『富貴』は、そのレトロでクラシックな様相が“昭和遺産”としてその価値を高め、全国から客が来るようになった。
連れ込み旅館→アベックホテル→ラブホテル
『ラブホテル進化論』(文春新書)の著者で神戸大学人文学部講師の金益見さんが語る。
「江戸時代後期の出会い茶屋や戦前の待合など、プロの女性と素人男性が情交するための場所は昔からありました。でも、『カップルがセックスをするための宿』が確立されたのは戦後間もなくのこと。当時は普通の旅館がカップルや夫婦向けに休憩料金を設けており、“連れ込み旅館”と呼ばれていました」
旅館に温泉マークがついていたことから、「逆さくらげ」の隠語でも呼ばれた。連れ込み旅館が流行した要因は、日本の住宅事情が大きい。
「当時は家の中に仕切りもなく、家族が川の字で寝るのが普通でした。夫婦に性愛を楽しむための場所がなかったんです。ひとときの間、ふたりきりになれる空間として、連れ込み旅館が利用されるようになった。そのうち旅館側も儲かり始め、木造から鉄骨のホテルへと形を変えていきました」(金さん)
連れ込みホテル、アベックホテルと呼び名が変わり、1970年代に「ラブホテル」の名称が登場する。大阪の『LOVE』というホテルが由来とされるが、諸説ある。
城のような外観が流行したのは、1970年代に初めてメディアで大々的に取り上げられたラブホテル、『目黒エンペラー』の影響だという。
「このホテルが城の形をしていたことで、みなが模倣しました。当時のラブホテルは広告手段がなく、人の目を惹きつけるべく外観そのものを広告塔にするほかなかったのです」(金さん)
同時期、外観だけでなく室内にも趣向が凝らされた。回転ベッドに滑り台、木馬、果ては室内を電車に模倣したものまで、バブル期特有の自由なノリで、想像を超える異空間が続々と登場した。
だが、行きすぎると客は飽きる。徐々にシンプルなラブホテルが望まれるようになり、アメニティーも増え、人が気軽に入りやすい施設へと変貌していった。
そして1990年代中盤、『ぴあ』など一般情報誌がラブホテル特集を始めたことで、ブームは再び爆発する。
「以来、ラブホテルの主体は女性になり、“セックスを”ではなく“セックスも”できるホテルに変わっていきました。今では部屋を選ぶのは9割が女子だといわれています」(金さん)
若者が集うおしゃれスポットへとラブホテルが立ち位置を変える中、真逆を行く『富貴』に人が集まるのはなぜか。