年商100億の実業家・吉川幸枝さん(88才)極貧からの逆転人生「120才まで生きたい。いつもいまがピーク」
背筋はピンと伸びて、肌はしっとりツヤツヤ、髪も驚くほど豊か。指には何千万~何億円という宝石が光る―愛知県名古屋市でレストラン、ブライダル会社、化粧品会社などを経営し、年商100億円を超える女性実業家の吉川幸枝(よしかわさちえ)さんは、見た目も身体能力も88才とは思えぬ脅威の若さを保っている。その秘訣に迫る。
教えてくれた人
『よし川』代表取締役社長 吉川幸枝さん
1935年生まれ、愛知県出身。不動産業及びレストラン運営会社『よし川』の代表取締役社長。22才から88才の現在まで66年間、現役社長を務めている。66才の頃、『¥マネーの虎』(日本テレビ系、放送は2001年10月~2004年3月)に出演、歯に衣着せぬトークで話題を呼ぶ。近著に『人生は80歳からがおもしろい』(アスコム)がある。
私はいつもいまがピーク
「毎年のように健康診断を受けますが、結果はいつも異常なし。しかも、『骨年齢20才、臓器年齢20代前半、血管年齢は子供』と、お医者さんからお墨付きをもらっています。それはたぶん、私が20代の頃からいまに至るまで、ずっと同じことを続けているからだと思います。一日の生活サイクル、食生活、欠かさない運動―同じことを愚直なまでに繰り返してきたから、いまの私があるんだと思います」(吉川さん・以下同)
そう明るく語る吉川さんだが、ここまで順風満帆できたわけではないともいう。
「人に裏切られたり、愛する人と別れたり、悲しい経験もしています。そんなときでも、昨日より今日、今日より明日はきっといいことが起こる。そう思い、そうなるよう努力してきました。私はこの先、120才まで生きるつもりですが、いつも“いまがピーク”と考えています」
吉川さんの半生と、その人生哲学についてご本人に聞いた。
50円から100億円の人生双六(すごろく)
「自分の人生を悲観したことはない」「90才はただの通過点」「120才まで生きるつもりで人生設計をしている」という吉川さん。どんな人生を歩んできたのだろうか。
名古屋市内でレストランや料亭を8店舗経営するほか、賃貸マンションをはじめとした多数の不動産を保有し、ブライダル事業も展開している吉川さんだが、幼少期は恵まれた環境ではなかった。
「昭和10年、13人きょうだいの末っ子として生まれました。いちばん上の兄とは27才、12番目の姉とも11才離れています。私が5才のときに機屋(はたや)をしていた父が亡くなってから、家賃を払うにも困窮するようになりました」(吉川さん・以下同)
当時は母と2人、ふすまで仕切られた一部屋を間借りしていた。上のきょうだいの独立を機に一転、母と2人、名古屋へ向かうことにした。吉川さんは12才、所持金はわずか50円だった。
母娘2人、リヤカー引きの極貧生活からの脱出
「荷物はお布団と火鉢、梅干しの壺のみ。それだけをリヤカーに載せて名古屋を目指しました。梅干しはうちにとって家宝です。祖母が生きていた頃からずっと漬けていて、いまも食卓に欠かせません。“これだけあればなんとか生きていける”というのが梅干しなんです。母と2人で名古屋の料亭に住み込みで働きながら学校に通いました」
高校卒業後、母から学んだ料理の腕を生かして、飲食店を始めた。
「おにぎり1つ食べるのも苦労する生活を送る中で、母の料理は私の心の支えでした。料理上手の母は梅干しやらっきょうを漬け、だしを一からとったおみそ汁も作ってくれました。母に学んだ私は、自然と料理好きになりました。満足に食べられなかった反動もあって、“おいしいものを売ってみたい”という気持ちを強く抱いていました」
当たって砕けろの精神で、吉川さんは百貨店のビュッフェに独自に考案した総菜を売り込み、仕出しの仕事を勝ち取る。そこで販売したハンバーグと豚汁がおいしいと評判になった。今度は知恵を絞って出資金を捻出し、喫茶店を出店。料理がおいしいと評判を呼び、店は繁盛。この間、20才のとき、機織りや軍事品工場、しょうゆやたまり工場などいくつもの会社を経営する11才上の男性と結婚。吉川さんは夫を支えながら、喫茶店の運営に心血を注いだ。
20代半ばで不動産会社を起こす
吉川さんの原動力は、自分を見守り、支えてくれた母に豪邸を建ててあげたいという思いだった。
「『豪邸』は英語で『マンション』。私は母だけに豪邸(マンション)を建てるつもりでしたが、母は『私はいいから、人に貸せるようなものを作ってみれば』とアドバイスしてくれて…。当時は、木造2階建ての建物ばかりで、名古屋に鉄筋コンクリートの建物はありませんでした。そこで4階建ての鉄筋コンクリートの賃貸マンションを建てることにしたんです」
昭和35年、25才で不動産業をスタート。同時期に長男を出産した。経営者として、妻として、母として、多忙な日々を送っていた。そんな折、夫が病気でこの世を去ってしまう。吉川さんが28才のときだった。
「夫が亡くなってからは私が一家の大黒柱として働きました。そんな私を支えてくれたのが母と息子でした。私にとっては何よりも大切な存在です。だからこそ2人を守りたいと思い、がむしゃらに働きました。ただ、私は仕事で全国を飛び回っていたので、一緒に食卓を囲むこともあまりできず、息子にはさみしい思いをさせたと思います」
『\マネーの虎』でブレーク
不動産業、飲食業を足がかりにファッション業、ブライダル業と経営を広げた吉川さんは、1990年代には年商が100億円を超えた。そして、女性の健康促進のために自らの健康習慣を伝える講演活動も始めた。
すると、高級ブランドのドレスに身を包み、1つ何億円もする宝石の指輪をつけた豪華なファッションが話題を呼び、テレビ番組に引っ張りだこに。
2001年には吉川さんの名を全国に知らしめた『¥マネーの虎』(日本テレビ系)にレギュラー出演し、「歩く100億円」と呼ばれた。吉川さんにとって、お金は特別な存在だという。
「お金は人を変えます。信頼していた人にお金を勝手に使い込まれたこともあります。いきなり大金を目の前にすると、人がどうなるかというのも、私はよくわかっています。だけど、お金で人に裏切られることはあっても、私はお金を裏切るようなことをしてはいけないと思っています。だからこそ、お金を大切に使いますし、無駄にはしません。そしてお金は自分で稼ぐものだとも思っているので、88才になったいまでも働いているのです」
80代で突然、最愛の息子と別れる
どんなときでも明るく前向きに生きることがモットーという吉川さん。だが、立ち直れないほど悲しい出来事に遭ったこともある。
いまから3年前、愛する一人息子の正浩(まさひろ)さんが、61才の若さで突然、この世を去ったのだ。
「息子は結婚し、私が経営するレストランの社長を務めていました。3人の子供にも恵まれ、幸せな家庭を築いていました。だけどある日、お嫁さんから『パパ(正浩さん)が倒れて動かない』と連絡が来たんです。息子夫婦とはマンションの同じフロアに別所帯で暮らしていたので、すぐに駆けつけ、一緒に病院に行きました。でも、そのまま意識が戻ることはありませんでした。たった1人の、心底愛する息子を失うなんて…。いまでも受け入れられません」
スマホの待ち受け画面を正浩さんの写真にして、いまでも毎朝欠かさず15分ほど位牌に話しかけている。
「もっと“お母さん”をするんだったと後悔しています。ただ、身を裂かれるような苦しいことがあっても、私は生きている。生きているからこそ、些細なことでも幸せを感じられるんです。88年生きてきて、それは強く実感します」
取材・文/廉屋友美乃 撮影/奥田珠貴 写真提供/よし川
※女性セブン2024年6月13日号
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