92才介護職員、91才海女文化伝承者 90代で働き続ける女性の原動力は「情熱、好奇心」
人生100年時代といわれるようになったが、90才になっても健康で働き続けていたいもの。そこで現役で働く女性、元看護婦長の介護職員・細井恵美子さん(92才)と海女文化伝承者の野村禮子さん(91才)の2人にキャリアや年齢の重ね方、健康の秘訣などをうかがった。情熱、向学心、好奇心にこちらもパワーをもらえますよ!
介護職員 細井恵美子さん(92才)
「いまの私ができるのは相手と接することだけ。人間として極めていかないとあかん、と」
昭和6年4月18日京都府生まれ
好きなもの:文章を書くこと、古典文学
京都府木津川市の高齢者福祉施設『山城ぬくもりの里』。92才の細井さんは、職員として同施設で働いている。
「利用者さんのトレーニングを手伝ったり、話し相手になったり。仕事というより手伝いです」(細井さん・以下同)
利用者や家族から「先生」と呼ばれている細井さんは、同施設の開設準備から携わり、70才のときに施設長に就任。80才から顧問として職員のサポートを続けている。
「3年前に自転車の事故で大腿骨を骨折し、厳しいリハビリを経て、もう一度動けるまでになりました。それ以来、週3回の勤務にしてもらっています」
細井さんをそこまで突き動かす原動力は何なのだろう?
「私は16才から60才まで看護師として働き、定年後は介護に軸足を移しました。振り返ると、仕事を通じて多くのことを勉強させてもらいました。そこで出会った大切な人たちが高齢化するなかで、私も一緒につきあっていきたいと思っているんです」
急に怒り出したり、ふらっといなくなる認知症当事者が、細井さんと接することで穏やかさを取り戻すことがある。
「それは年の功ですよ。私が話していると、相手に伝わっているように見えますでしょう(笑い)?実際はほとんど伝わっていませんけどね。でも、そばにいるだけで安心してもらえるみたいです」
細井さんは、認知症カフェでのボランティアや宇治市が主催する認知症イベントへの参加など、施設の仕事以外でも精力的に活動を続ける。
「看護師のときは、白衣を着ているだけで皆さんが信頼してくれました。しかし、脱いでしまったら、ひとりの細井恵美子です。技術が振るえるわけでも、細かい仕事ができるわけでもない。いまの私ができるのは、相手と接することだけ。そのためにも人間として極めていかないとあかんと考えるようになりました。
たとえば、挨拶をきちんとするとか、どんな小さなことでも相手の話を大切に聞いておくとか、そんなことを常に思っています」
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●訪問看護のパイオニアとして
こうした情熱は、看護師時代の体験が影響している。
「37才で京都南病院に移りましたが、ちょうど60年安保の真っ最中で、“物言う医大生”が多かった。京都南病院は、大学病院の医局から放り出された“物言うお医者さん”の集まりでした。彼らは『貧しい人にも公平な医療を』と、地域医療に対するしっかりとした理念を持っており、その考え方は、私にもとても腑に落ちました」
翌年、総婦長になった細井さんが、看護システムの改善に取り組み始めると、反発する古い看護師が30人ほどやめるなど、苦労もあった。
「それでもやるべきことはやる。当時、胃瘻(いろう)の処置ができないなど、退院後の生活がままならない家庭が多かったため、1972年に訪問看護を提案したんです。費用が病院の持ち出しになるからと反対の声もありましたが、看病する家族も患者も『病院より家の方がいい』と喜んでくれました」
国が老人訪問看護制度を創設したのは実は’91年。細井さんの先見性に頭が下がるばかりだ。
また、細井さんは49才で佛教大学の文学部に入学している。
「何か、自分の運命を変えてみたい気持ちがありました。戦争や病院で見てきたので、いろいろな人やいろいろな病気のことを書いてみたいと思ったんです。ただ、古典や中世文学に興味が行ったので、卒論は『徒然草』でしたけど。
その後、社会福祉も専攻し、10年ほどは学生と総婦長のかけ持ちでした。両立の苦労? それはありません」と事もなげに語る。いまでも日々介護の最前線を研究し、研鑽を積んでいる。来年は本を出版予定で、毎日1~2本の記事を書いているという細井さんの向学心、好奇心は、まだ成長中だった。