【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第34回 小春日和」
デイサービスとショートステイ。母が施設と家を行き来するライフスタイルにもほぼ慣れてきた、と感じた矢先だった。
連絡事項があり施設へ電話すると職員さんが「いただいた電話で申し訳ないのですが」と切り出した。
以前から母は施設へ行くと「ものを盗まれる」という被害妄想が顕著になってはいたが、ついに職員さんとの間だけでなく、他の入所者さんをも巻き込んでいるという。そして対処に困っている、という話だった。
「盗まれるものは施設には持っていっていませんから安心して」と私が書いた紙を職員さんに見せてもらうように頼んでいたが、この頃はその紙を見ても30秒後には再び同じ話をしているという。
「ものを盗まれるという妄想は認知症の典型なので、そろそろ医師に相談してほしいのです」とのことだった。
母は施設にいると不安なのだろうか?もし安心した家だけの生活で満たされていたら、こんな被害妄想は出ないのだろうか?自分の采配で、もっと良い形があるのではないか?…
こういうことが起きると自分を責めてしまう。そして、そういう時に限って私は、母にさらにつっけんどんに対応してしまったりもする。
エントロピーの法則
そんな時、著名人の講演が気楽にアプリで聴けることを知って、気分転換に使ってみることにした。
古今東西、人間が人間のことで頭を悩ませているのは同じなのだろう。「なぜ他人軸で生きてしまうのか」「後悔の心理学」「不機嫌の正体」などのタイトルがランキングのトップに目につく。
私は少し検索し、細胞生物学者・吉森保氏による「病気と老化―細胞の働きから学ぶ」をクリックしてみた。
吉森氏の話によると「老化と死は別のものであるということ(当たり前ではあるが)。中には、老化せずに寿命がくると突然死するネズミの一種がいること、さらに、死なない生物もいて、それはクラゲの一種なのだ」という。
物理学でいうエントロピーの法則によると、全ての宇宙にある生命は誕生した途端崩壊に向かっているという話から、90億の細胞から成り立っている人間の個体も同じく、細胞レベルでは人は日々生まれ、日々死んでいる。その恒常性(ホメオスタシス、バランス)の上になんとか生きているのだが、その恒常性も平穏無事でないことが起きると崩壊の危機となる。しかし、である。脳細胞だけは生まれてから死ぬまで変わらない、という事実も知った。
そうなると母の脳内は、エントロピーの法則通りに崩壊しているのだ。これは宇宙全てにおいて起こっていることなので、母個人の問題ではないかもしれない。
致し方ないことだ、と妙に納得した。この話を聞いて以後、私は母に対して優しくなったかというと、そういう訳でもないし、やはり同じ話が何度も出るとイラっとすることに変わりはない。
しかし、呪文のように「エントロピー!エントロピーの法則が母の脳内で効果を発しているぞよ」と、小声で言うようにしてみた。
すると、「認知症」と言うよりはるかに病気的ではない感じがするのだった。宇宙の法則通りなのだから、誰のせいでもないし、ましては病気ではないのだ!と。
いつか私のことも忘れてしまうのか
ある日、珍しく神戸にいる父の従兄弟に当たる96歳の伯父から電話がきた。
話し方は以前とほぼ変わらない上、頭脳明晰、さらに、ワインやステーキも嗜み、バーへも行ってると言う。環境や栄養などの違い、遺伝子の違いか、エントロピーの法則にも個体差があるらしい。
母とも電話を替わって、話に花が咲いている「え?お孫さん6人がいるのですか?いいですね~。ひ孫さんもいらっしゃるの?」
伯母さまは足腰が弱り施設にいらっしゃるというが、頭脳は明晰だそうだ。
電話の後、母に「じゃあ、K子さん(母の名)は孫は何人いるの?」と聞いてみた。
すると、「孫ってあまり見ないねえ。いるのかな?」と言う返事。
「ほら、3人いるじゃないの、英国に」と私が言うと、「ああ!そうだったね」と微笑むのだった。
いつか、娘の私のことも忘れ「あなた,誰だった?」と言われても、「エントロピーの法則に則っている。めでたい!めでたい!」そう思えるようにしておかなくては…。
生き物との交流が癒しになる
寒くなると母の手仕事はレース編みから毛糸に変わる。(と言っても自主的にではなく、私が購入した素材を渡しているのだが)
野良猫さんたちも餌を食べてから家の中の日向でゆっくり寛いでいる時もある。
母は猫が苦手だ。だが、そんな時は面白いねえ、と猫を見て笑っている。
実は私もずっと猫のことに興味や愛着を持てないでいた。でも、こうやって猫という生き物と多く接するうちに、猫は自分勝手というけれど、他者の様子を察する能力に長けていると感じることが多い。特に家猫ではなく、日々の野外生活でホッとする間もないからかもしれないが、ニャーと挨拶はするし、自己主張は犬ほど強くない。いや、犬とは全く違う生き物で、それが最近面白く感じている。
愛犬が亡くなってちょうど3年が経った。人間以外の生き物とコミュニケーションをとることは、心の筋肉の別の部位を使うような感覚があり、自分にとっては必要なのだ。言葉を介さない会話。それが介護者の心の癒しになる。
秋の海散歩
秋の海の、うねりが次々と押し寄せて、夕焼けも美しい。庭を冬仕舞いして、雑草を抜いて、チューリップの球根を植えた。春先に花芽を全てキョンに食べられたので、今年は厳重に予防をした。
そして、晴れた凪の1日、穏やかな館山でシーカヤックで海散歩を楽しんだ。冬に向かう海は斜光に輝き、パドルで左、右と漕ぐすぐ下の海も透明だ。
日帰りなので、メモをテーブルに置き、アレクサのリマインダーには「裕子は夜に戻ります」と入れた。この頃、すぐに忘れてしまうので、少し不安もあったが、夜に戻ると「眠いので先に寝ますね」とメモがテーブルにあった。
翌朝、家の周りには枯れ枝が各所に刺してあった。どうやら母が泥棒よけに枝でフェンスのようにしたようだった。