『鎌倉殿の13人』30話 全成(新納慎也)悲劇の背後で比企能員(佐藤二朗)の恐ろしい作り笑い
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』30話。阿野全成(新納慎也)が頼家(金子大地)を呪詛した人形が見つかってしまう。比企能員(佐藤二朗)はその裏に北条がいるものと睨み、事件を厳しく追求する。激化する比企と北条の対立を背景に起きた頼朝の弟・全成の悲劇を描く「全成の確率」(副題)の回を、歴史とドラマに詳しいライター、近藤正高さんが、歴史書を紐解きながら考察します。
比企能員「全成一人の仕業ではない」
前回の終盤では、頼家(金子大地)の暴君ぶりに歯止めがかかったかと思わせたが、すぐにまた問題が持ち上がる。御所の床下から、頼家の名前の入った札を貼りつけた人形が見つかったのだ。前回描かれたとおり、それは阿野全成(新納慎也)が、舅の北条時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)夫妻から頼家を呪詛してほしいと懇願されて仕掛けたものである。その後、頼家が改心したのを見届けた全成は、床下に並べた人形を引き上げ、妻の実衣(宮澤エマ)にも事の次第をすべて打ち明けていた。
が、本当に全部回収したのかという実衣の心配が的中する。前回のラストシーンでは、床下に残っていた人形1体が何者かに持ち去られたが、どうやら取り残した人形はそれだけではなかったらしい。今回の冒頭では、頼家の蹴鞠の指南役・平知康(矢柴俊博)によって、もう1体発見される。折しも、頼家は病に伏せっていた。比企能員(佐藤二朗)はその原因を何者かによる呪いと見て、犯人捜しに乗り出す。
義時(小栗旬)はすでに前回、父の時政が全成に呪詛を頼んだ事実を把握していた。そのうえで、大江広元(栗原英雄)から時政の関与を問いただされると、「わかりません」と答え、全成に対しては、頼家から呼び出しを受けてもけっして自分がやったと認めてはいけないと釘を刺した。
その直後、全成は、能員の息子・時員(成田瑛基)から家宅捜索を受けると、御所に呼び出された。頼家立ち会いのもと、押収された人形や道具を前に能員たちから尋問され、義時に言われたとおり否認を続けながらも、監禁されて激しい拷問に遭う。
義時は能員に対し、全成にはそれなりの礼をもって接するよう要求し、「全成殿は北条の縁者。度を過ぎれば取り返しのつかないことに……」と牽制した。それを聞いて能員は「わしはな、小四郎、これが全成一人の仕業ではないと思っておる。当たりのようだな」と、自分の見立てが間違っていなかったと確信する。一見すると義時が、全成の後ろには北条がいると認めたように思えるが、能員の腹を探るため、あえて口にしたのだろう。
このあと、義時は時政のもとに赴くと厳しく叱りつけ、比企は北条と一戦を辞さぬ構えだと伝える。焦った時政は全成を許してもらうため自ら名乗り出ると言い出すが、義時はそんなことをすれば比企の思うつぼと、軽率な行動を諫めた。何しろ比企は北条をつぶしたくてしかたがないのだ。
実衣(宮澤エマ)の処遇
では、この危機に北条はどう対処すべきか? 義時はすでに策を講じ、義弟の畠山重忠(中川大志)と話をまとめていた。いわく、まず戦の準備をしておき、比企と一戦に応じる構えを見せたうえで、戦にはならないよう、ほかの御家人たちに声をかけ、仲裁してもらおうというのだ。
具体的には、御家人たちから頼家に対し全成への許しを求めるべく連署を集めることになる。先に梶原景時を抑え込むためにやったのと同じ方法だ。御家人たちとすれば、比企に勝たれても面白くないから、きっと乗ってくるはずだと、義時は自信を見せる。さっそく三浦義村(山本耕史)と和田義盛(横田栄司)に声をかけ、御家人たちの名前を集めてもらうよう頼んだ。このとき義盛が、全成の印象の薄さゆえ果たして皆が乗ってくるだろうかと心配したのに対し、義村は梶原がいなくなりいよいよ比企と北条の一騎打ちかと、見当違いな期待に胸をふくらませる。どうもここへ来て義村が油断ならない存在になってきた。義時に向かって「言っとくが、いまのところだぞ。この先はどうなるかわからねえぜ」と断りを入れていたのも気になる。
義時はまた実衣に対しても、全成の次に捕まるのはおまえだと、姉の政子(小池栄子)のもとに身を寄せるよう命じた。頼朝が倒れたときの跡継ぎ争い以来、姉妹は疎遠となっていたが、これを機に久々に対面し、和解を果たす。
こうして義時が手を打つ一方で、能員もぬかりがない。比企の出である義時の妻・比奈(堀田真由)を館へ呼び出すと、妻の道(堀内敬子)と一緒に、いざとなったら北条と比企どちらにつくのかと暗に問いただす。そこへ、比企の家人から兵を固めたとの知らせが入り、能員は、もし戦になれば北条の者はすべて滅ぼすと比奈に脅しをかけたうえ、「おまえは比企の家に生まれ、比企で育った。それをくれぐれも忘れてはならんぞ」と念を押すのだった。これに比奈は「かしこまりました」と答えたのだが、果たしてその心情はいかに……。
そのころ、政子のもとへ頼家の近習衆が押しかけ、実衣を引き渡すよう力ずくで迫っていた。父・義時の命を受けた泰時(坂口健太郎)がひとり応戦していると、政子が現れ、「(実衣から)話が聞きたいのなら、自分でここに来るようにと、頼家にそう伝えなさい」とはねつける。それでも、リーダー格の比企時員は一緒にいた北条時連(瀬戸康史)から戻ろうと言われても、比企の人間として引き下がるわけにはいかず、なおも食い下がった。では致し方ありませんと、政子は北条の懐刀である仁田忠常(高岸宏行)を呼ぶと、こちらも力ずくで追い返す。それでも、事態は政子や義時が思うとおりには運ばなかった。
御家人たちから全成赦免を求める申し状が提出され、実衣の処遇とあわせて頼家が最終判断を下すことになる。だが、同席した政子・義時と能員が言い争うさまを見て、頼家はすっかり機嫌を損ね、実衣こそ政子に免じて許したものの、全成に対しては流罪を命じた。
全成は、八田知家(市原隼人)の所領である常陸への流罪が決まり、出発を前に実衣と涙ながらに面会する。全成が義時から聞いた話では半年ほどで戻れるとのことであった。夜になってこっそり謝罪に来た時政に対しても、「私は大丈夫」と笑顔で答えたのだが……結局、これが全成と北条の人たちとの今生の別れとなってしまう。原因は能員にあった。
全成の最期
このころ頼家は、父・頼朝の代に有力御家人へ与えた土地を、所領の少ない御家人へ再分配しようとしていた。能員のもとにも再分配を求める御家人の書状が多数届けられる。そのうえで頼家は能員に対し、比企の上野国の所領をすべて近隣の御家人に差し出すよう命じた。これに恨みを抱いた能員は、常陸の八田館に預けられた全成をわざわざ訪ねると、頼家を呪詛するよう依頼したのである。全成は悩んだ末にこれを引き受けてしまう。
八田知家はすぐに全成の行動に気づき、頼家に通報した。当然、頼家は激怒し、全成を呼び戻させ、自ら首をはねるとまで言い出す。これを受けて知家が全成を誅殺するべく、すぐさま鎌倉を発った。その場には能員も居合わせたが、全成をそそのかした張本人にもかかわらず、頼家や知家の怒りを鎮めるどころか、これは謀反だとけしかける始末であった。
こうして全成は最期を迎えるのだが、ここで奇跡が起こる。処刑のため庭に連れ出された全成が呪文を唱えるなか、その首めがけて八田の家人が刀を振り落とすと、雷が近くの木に落ちたのだ。おかげで全成はいったんは命を取り止め、激しい雷雨のなか、さらに力強く呪文を唱え、天を仰ぐ。
あとで義時が実衣にせがまれて伝えたところでは、最後に知家が自ら全成の首を落とした刹那、嵐はやみ、青空が広がったという。それを聞いて政子が「やはり全成殿には人知を超えたお力があったのですね」と言うと、実衣が涙ながらに「当たり前でしょう。醍醐寺で20年修業を積まれてきたのですよ。あの人はそういうお方なんです。私にはわかってた、ずっと昔から」と言うと、「フフフ、やってくれましたねえ。最後の最後に」と悲しみに暮れながらも、精いっぱい誇らしげな顔を見せるのだった。
義時は政子とも連携して手を尽くしながらも、結局、全成を救うことはできなかった。政子からは「小四郎、こんなことがいつまで続くのです」「何とかなさい」と言われるが、彼には「私に言わないでください!」「一体、何ができるというのですかっ!!」と答えるしかなかった。大きな流れの前では、まるで自分は無力であるとあきらめきったかのように……。
それでも義時は次の手段に出た。全成に頼家を呪うようそそのかしたのは能員と見抜いて、彼を呼び止めると、殺し屋の善児(梶原善)立ち合いのもと、その本心を吐かせたのだ。それによれば、能員が全成を死に追い込んだのは、自分の孫である一幡(頼家の長男)に鎌倉殿を継がせることで、自分は武士の頂点に立ちたいとの一心からであった。そのうえで彼は「そんなことを夢見た、わしを愚かと思われるかな」「小四郎、わしに力を貸さんか」と図々しくも言い放つのだが、もちろん義時はこれをきっぱりと断る。そのうえで能員には必ず鎌倉を出て行ってもらうと告げた。じつはそのために、頼家を呼んで、裏で話をすべて聞いてもらっていた……はずだったのだが、いざ頼家に声をかけても姿を見せない。
そこへ弟の時連改め時房が慌ててやって来て、頼家が倒れたと伝える。おかげで義時は、能員を罠にはめるつもりが、反対に窮地に立たされてしまった。能員としてはしてやったりというところだが、果たしてどうなってしまうのか。
『吾妻鏡』と諸説
『吾妻鏡』によれば、全成が謀反の疑いから捕えられたのは建仁3年(1203)5月19日で、そのわずか6日後には常陸国へ配流されている。この間、頼家は全成の妻(ここでの名は阿波局)にも尋問を申し入れるが、政子が「謀反の件は彼女の知るところではない」と答え、引き渡しを拒否した。八田知家が頼家の命を受けて全成を誅殺したのは、その翌月、6月23日だが、なぜそうなったのか説明はない。
そもそも全成の謀反について『吾妻鏡』にはくわしい記述はなく、多くの謎が残る。研究者によってその見方もさまざまだ。たとえば、『鎌倉殿』で時代考証を担当する坂井孝一は、全成の謀反計画の存在自体を疑い、むしろ全成の処分を、頼家と比企能員による北条氏への圧迫・牽制の動きとしてとらえる。すなわち、頼家と比企能員は、頼家の長男で比企氏が乳母として育ててきた一幡を次の鎌倉殿に据えようとしていたが、そのうえで頼家の弟・千幡(のちの実朝)とその乳母夫・全成および北条氏が支障になると考え、まず全成を排除し、それに連動する形で北条氏に圧力を加えようとしたのではないか、というのだ(『源氏将軍断絶』PHP新書)。
これに対し、同じ中世史の研究者でも細川重男は、全成の処分は、頼家が北条氏、とくに母・政子を屈服させるため、能員とは無関係に単独で決行したものと推察している。その一因として挙げられるのが、先に頼家が安達景盛の妻を奪おうとして政子から諫められた一件だ。このことで権威を傷つけられたと感じた頼家は、叔父であり頼朝の弟である全成を殺害することで、自身の鎌倉殿としての権威と権力を確立しようとしたのではないか……というわけである(『鎌倉幕府抗争史~御家人間抗争の二十七年~』光文社新書)。この説からすると、頼家がどうにも子供っぽく思われるが。
『鎌倉殿』では、全成事件について『吾妻鏡』を参照しつつ、比企と北条の争いのなかで全成が巻き込まれたものとして描き、その悲劇を引き立たせていた。そのなかで、能員の野心もあきらかになったわけだが、その権力欲の強さ(おそらくそれは時政以上だろう)に唖然とさせられた。何ゆえ彼はそこまで権力を欲するのか。もともと頼朝を育てた乳母の一門でありながら、鎌倉に政権が成立して以来、北条の陰に隠れがちになってしまったことへの恨みがそうさせたのか。能員を演じる佐藤二朗独特の作り笑いが、今回ほど不気味に感じられた回はなかった。
最後に余談ながら、今回さりげなく出てきた北条時連の時房への改名について。劇中では蹴鞠の指南役・平知康(矢柴俊博)から「時連の『連』は銭の穴を貫いて束ねる『ツラ』を思わせ、非常に品が悪い」と言われたのがきっかけとして描かれていたが、『吾妻鏡』には、実際に知康はほぼこれと同じことを言って(蹴鞠のあとの酒宴の席上、酒の勢いのあまり口走ったらしいが)時連に改名を勧めたという記述がある(建仁2年6月25日条)。後日、この話を聞いた政子は、知康は思い上がっていると怒ったという。ついでにいえば、前回出てきた知康が井戸に落ちたエピソードも、『吾妻鏡』に元ネタと思われる記事がある。それによれば、知康は頼家のお供として鷹場(鷹狩をする場所)を見に行った帰りがけ、乗っていた馬が驚き騒いで躍り上がったために、古井戸に転落したらしい。こうして見ると、『鎌倉殿』の作者の三谷幸喜がいかに『吾妻鏡』を下敷きにしているかが改めてうかがえる。それだけ同書がエピソードの宝庫ということだろう。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある